〆切はすべての創作の母だから

柳下さんと出会ってからの二年間、彼に設定された〆切は数え切れない。
わたしの手帳にはそのたび「◯◯の〆切」と書き込まれる。

〆切を切られるのはどきどきするものだ。
それはもちろん「間に合うだろうか」という不安によるどきどきでもあるが、わたしはそこにもうひとつ、違う種類のどきどきがあることに気がついた。

「◯◯の〆切」と書かれたカレンダーを眺めながら、想像する。

「この日には、今はまだない文章ができあがっている(かもしれない)」
「この日には、今はまだない文章を読むことができる(かもしれない)」

そのどきどきは希望なのだった。



『柳下さん死なないで』というこのブログ自体も、はじめは〆切がなかった。
書きたい時に書く、というスタイルで始めたのだが、そうすると自然と書かなくなる。いつでもいいから、いつまでも書かない。

柳下さんはわたしに〆切を設定した。
「4のつく日に、更新しよう」

それとともに、もうひとつ更新している子育てブログも、1日と10日(次男と長男の誕生日である)に〆切が設定された。
今のところわたしは、それ以来〆切をすべて守っている。

〆切が近づくと、何を書こうか決めていないままに原稿に向かうことになる。書けるかどうかもわからない。ただ、書くと決めている。それだけ。それだけだけど、それがとても大事だと、書き始めてからわかるようになった。

まずは原稿に向かうこと、手を動かすこと、文字を書くこと。
そうしたら4のつく日の終わる時には、新しい「作品」が生まれているのである。
それはやっぱり、どう考えたって希望なのだった。


「〆切がすべてだよ。なぜなら〆切はすべての創作の母だからね」
柳下さんはよくそう言うが、まさにその通りだと思う。
〆切のないところに作品は生まれない。

わたしは〆切を「舞台に立つ日」のようなものだと思っている。
準備ができてから、と思うと人はなかなか舞台に立てない。たとえ準備ができていなくても舞台に立つことで、人はそこで歌うことができるし、踊ることができる。文章も一緒だ。現時点、この文章を書いているわたしは、舞台に立って歌っているのである。がむしゃらに、体を動かしながら。

 

上手なものを作ろうとするんじゃない。
今日できることを、全部ぶつける、そのための舞台。
〆切はきっと、そのためにある。


わたしは基本的には〆切を守るタイプであるが、ひとつだけどうしても破ってしまう〆切がある。
それは今書いている、長編小説だ。

「ごめん、〆切守れない」
わたしがそう言うと柳下さんは怒るかというと、怒らない。
黙って彼は、〆切を延ばしてくれる。

初めてわたしが〆切を破ったとき、彼はわたしにこんなことを言った。
「僕は〆切の妖精ですから」(そのときはまだ敬語だった)

「〆切の妖精って、どういう意味ですか?」
そう聞き返すと、
「〆切をいつもなんとかする人です」
と言っていた。
「印刷所にごねたり、製本所で暴れたりして、〆切をなんとかするんです」

わたしはその様子を想像して笑ってしまう。さぞや印刷所や製本所の方達は迷惑であるだろう。

だけど、柳下さんがそうしてくれるのは誰のため、何のためなのだろうか?
決して、スケジュール調整のためでも、作家のためでもないのだろうなと思った。

〆切の妖精は、ただ作品のために存在する。
より良くなる可能性を持つ作品のために、そうするのである。


この間、また小説の〆切をわたしが破った。
〆切は、9月10日から9月27日に変更された。

その他の〆切はすべて守っていたわたしに、柳下さんは
「君は〆切をちゃんと守るね」
と言った。
わたしはうなだれて答える。
「でも、小説の〆切は守れていないよ」

そのとき柳下さんはこんなことを言った。
「〆切には早く来る〆切と、大事な〆切があるよね」
そして人は早く来る〆切ばかりに気をとられて、大事な〆切を後回しにしてしまうものだよね、と。

その言葉は、わたしの頭のなかにずっと残った。
〆切が「舞台に立つ日」であるならば、わたしはこの「長編小説」という大事な舞台から逃げ続けている?



「最後にして最大の〆切は『死』だ」
そんなことも、柳下さんは言っていた。
「どうして僕がこんなに何度も〆切についてしつこく言うかわかる? 君がすぐ、そのことを忘れるからだよ」
「僕は君が生きているうちに、ひとつでも多くの作品を残してほしいって思っているんだよ」

 
〆切の妖精にも、「死」という〆切だけは引き延ばせない。

次の〆切は、9月27日だ。
さあ、書こう。