悪のクリエイティブ

ずっと編註を入れたいと思っていた。

編集されていない情報は、世界に不安と無秩序を生み出す。
それは、とてもよくない。そして、とてもナンセンス。

しかし、節度を持った常識人の僕が、土門さんの創作によって狂人に仕立て上げられるという、この「柳下さん死なないで」という連載では、編集というものはあまりされない。なぜなら、そこに観察者効果が生まれてしまうからだ。

真夜中、山を歩くヤマネコを撮影するには、ストロボを焚かなくてはいけない。
しかし、ストロボが強く光れば、闇を行き交うヤマネコの本来の生態を写し取ることはできない。
このように「観察する」という行為そのものが、観察される対象に影響を与えてしまうというジレンマを、観察者効果という。

担当編集について書かれた文書は、編集された時点で意味を失う。少なくとも変容してしまう。
だから、僕は、この文章にずっと編註を入れたいと思っていた。
せめてそれが、観察者効果を避けるための唯一の編集点で、編集の方法だと思うから。
(僕は狂っていない。狂っているとしたら僕以外のすべてだ)

本来の註というものは、本文の語句や事象に紐づくものだけれど、今回は、2019年8月24日更新分の「柳下さん死なないで」を例にとって、具体としていこうと思う。
編註というよりは、土門さんがいかに偏って僕を見ているかという真実を知るための一助になればいい。

以下、土門蘭の書く、「『自分会議室』と『自分現場』。あるいは『鳥の目』と『人の目』。」を底として、この増補が成り立つ。再読を請う。

youcannotdie.hatenablog.com



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「柳下さんはどんな気持ちで『闇金ウシジマくん』を読むんだろう?」と結ばれたこの文章。よろしい、一度、言語化してみようと思う。

闇金ウシジマくん』を読んで、まず僕は「悪のクリエイティブ」について考えた。そして、比較文学として『不夜城馳星周著(角川書店刊)についても。


まずは「悪のクリエイティブ」とはなにか?
さて、この言葉は、ところで僕の言葉ではない。
畏友・徳谷柿次郎くんの造語を、やや、よそ行きに僕が整えた。
実に彼はすばらしい、詩人かコピーライターのように言葉を選ぶ。

たとえば、この本のこと。
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『レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち』石井光太著(新潮社刊)
https://www.shinchosha.co.jp/book/132533/
二〇〇二年、冬。インドの巨大都市ムンバイ。路上にたむろする女乞食は一様に乳飲み子を抱えていた。だが、赤ん坊はマフィアからの「レンタルチャイルド」であり、一層の憐憫を誘うため手足を切断されていたのだ。時を経て成長した幼子らは“路上の悪魔”へと変貌を遂げる――。三度の渡印で見えた貧困の真実と、運命に翻弄されながらも必死に生きる人間の姿を描く衝撃作。
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想像することができるだろうか?
孤児をもらい、その手足を落とし、道に寝かせておくだけで旅行者や市民から、小銭を集めようとすることをビジネスとしてやろうとする、人でなしがいることを。
ビジネスの基本が「下代と上代の差分を取る」という概念なら、彼らは法律の外側で原価ゼロで仕入れをしている。あとは、システムを作るだけだ。
考えただけで気分が悪くなるが、振り込め詐欺なども、組織的に作られた集金装置。
もちろん、それを肯定するつもりはないが、そこには確実に「悪のクリエイティブ」がある。倫理を超えたヘイトの創作。
そこには、我々の想像を超えた「クリエイティブ」がある。
悪にしか成し得ない「悪のクリエイティブ」だ。

併せて『HATE! 真実の敵は憎悪である。』松田行正著(左右社刊)という人間の醜さを教えてくれる本も読めば、ここに引用するのも恐ろしいほどの、人類の醜い歴史を知ることができる。冒頭のクルド人女性兵士のことや、ウクライナユダヤ人大虐殺のことなど、ああ、性善を疑ってしまうほどの人間の悪性。

人間というものには、とても残酷な性根がある。悲しいけれど、それは事実だ。


そして、比較文学について。
真の悪(マフィア・戦争など)というものは、そのまま文学には使いにくい。
我々の属する「表側の世界」(非悪)からすると、極端すぎるからだ。
そこで、ドラマツルギーとして「真の悪」と「非悪」をつなぐ緩衝地帯に属する主人公が必要となる。
それが「ウシジマくん」であり、『不夜城』の主人公「劉健一」である。

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不夜城馳星周角川書店刊)
https://www.kadokawa.co.jp/product/199999344201/
アジア屈指の歓楽街・新宿歌舞伎町の中国人黒社会を器用に生き抜く劉健一。だが、上海マフィアのボスの片腕を殺し逃亡していたかつての相棒・呉富春が町に戻り、事態は変わった――。
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この両作品を比較対象としたのは、構造はとても似ているけれど、フォーカスされた舞台が異なるからだ。
詳述していこう。

真の悪的世界    緩衝地帯     非悪的世界
-----     ウシジマくん   奴隷くん
歌舞伎町      劉健一      -----

両文学は、このようにレイヤーが一層分ズレた構造をしている。
「無抵抗の子どもの手足を切り落とす」なんていう、想像できないほどの残酷さをそのまま描くのではなく、真の悪レイヤーと、我々の非悪レイヤーを結ぶ存在として、ウシジマくんや劉健一が文芸的に配置されている。
真の悪を知らない我々読者からすると、その中間を描いていないと共感ができないからだ。

そのような前提を考えてから、両作品を読んでみると、劉健一が終始緊張しているのと、奴隷くんたちはとてもよく似ている。常に上位レイヤーの「悪性」におびえているのだ。
逆に、ウシジマくんの「うさぎ」や、劉健一の「葉巻」に、下位レイヤーとの強い結びつきを感じる。人間的弱さと言ってもいい。

だから、僕は「奴隷くん」よりも、「ウシジマくん」よりも、それらを包括する全体的な文芸的構造を読むのが好きだ。

大切な情報というものは、何度も口にされるか、まったく触れられないものに含まれている。
闇金ウシジマくん』を読むと「奴隷くん」に感情移入する人が多いような気がするけれど、彼ら、あるいは彼女らは、「ウシジマくん」について、どのように感情移入しているのだろうか?
僕にとって「ウシジマくん」は「奴隷くん」同様に興味深くて、みんなが「ウシジマくん」をどこまで人間的に読んでいるのかを考えてしまう。

それが「自分現場」と「自分会議室」を不可分にしてきた、僕の読み方だと思う。
鳥の目は僕の頭上から、いつも僕を見下ろしていて、僕の人の目はその鳥を、じっと見上げている。

(毎月4日はゲスト更新日です。本稿は柳下が埋めました。あしからず)