初稿で自分のために書き、改稿で読者のために読む

小説家を見つけたら』という映画に、こんなシーンがある。

偏屈な小説家が、文才を持つ青年に、文章の書き方を教える。タイプライターに向かった小説家は、まるでピアノを弾くように素早く文字盤を打ちながら、青年にこう言う。
「考えるな。第1稿はハートで書け。そして、リライトで頭を使え」

この映画を観ながら、柳下さんも同じことを言っていたな、と思った。
彼の言葉を柳下さんの言葉に置き換えるならこうだ。
「書け書け、土門蘭。駄文だと思っているのは君だけだ。あとは改稿で直せばいい。文章は改稿がすべてなんだから」


さて今、わたしは小説『戦争と五人の女』の入稿を目前としている。
2017年1月から書き始めた小説だから、ここに来るまでに2年半かかったことになる。
その間ずっと併走してくれた編集者・柳下さんには、心からお礼を言いたいのだけど、それは本ができあがってからにするとして、今回は「改稿」について書こうと思う。


ついさきほど、第5稿を柳下さんに提出したところだ。
つまりこれまでに4回改稿をしたことになるが、もしかしたらもう1回くらい改稿が必要かもしれない。
柳下さんと作品をつくり始める前、彼は、
「僕は仕事がしつこいから、君が嫌にならなければいいけれど」
と言っていた。
しつこいってどういう意味だろう?と、そのときはよく意味がわかっていなかったけれど、多分この改稿の粘り強さについてそう言っていたのだろうなと今は思う。


改稿というのは、本当に大変だ。
一度書いた原稿を、編集者に読んでもらう。それから「ここはもっとこうした方が伝わりやすいのではないか」とか「ここをもっと書き込んだ方が良いのではないか」とか意見(赤字)をもらって、それを持ち帰り、うんうん考えて、もう一度書き直す。それが改稿だ。

改稿をすると、ものすごく疲れる。眠たくて眠たくて、無性に甘いものが食べたくなる。それは多分、まさにくだんの小説家が言う通り、「頭を使」う行為だからなのだと思う。


あれは第何稿のときだったろう。
柳下さんが赤字を入れた原稿を手にしながら、「少し乱暴な言葉を使うと、君には『思い込みクズ』なところがあるな」と言った。

「思い込みクズ?」
びっくりしてそう聞き返すと、柳下さんは頷いた。
「君には少し狂っていてサイコパスなところがあるのに、そんな自分のことを正常だと思っている節があるんだ」

ぽかんとしているわたしに、でもね、と柳下さんは続ける。

「『思い込みクズ』であることは、小説を書くのに必要な条件なんだよ。ここに書かれていることは本当なんだと思い込まないと、小説なんて書けないんだからね」

わたしは何と答えたらいいのかわからず、ただ「そうなのか……」とつぶやいた。

「だけど、自分が『思い込みクズ』であることは自覚していないといけない。君自身にとっては当然で書く必要もないと思っていることが、読者にとっては不可思議で全然わからないことがあるんだ。その断絶をつないでいこう。作品のなかに、読者の『共感』をちゃんと作ろう。それが改稿だ」

それから、柳下さんは念を押すようにこうも言った。

「もちろんそれは、『読者におもねる』ということではないんだよ。この作品はすばらしい。だから、少しのひっかかりで読者がこの作品に入り込めないことがあれば、それはすごくもったいない。そのひっかかりを、ひとつずつなくしていくんだ」

そしてわたしたちは、テーブルの上に原稿を置き、顔を付き合わせ、そのひっかかりについて話し合っていった。
原稿を1枚1枚めくりながら、柳下さんの入れた赤字をひとつずつ確かめていく。

「この主人公は、過去に自分が行ったことについてどう思っているんだろう? そのことがまだ書かれていない気がする。このままだと、読者はきっと主人公についてこれない」
「この主人公は、この登場人物についてどう思っているんだろう? その感情に変化はあったのかな?」
「この章はシーンがシェイクされているのがおもしろい。だけど分断された同一のシーンが離れているから、読者に『このシーンの続きなんだな』とわかってもらうために、つなげるための一文が必要だと思うんだ」
「各章のタイトルを考え直そう。見出しだけで、読者にとっての情報量がぐっと増える」
「あのさ……これ言うのすごく迷ったんだけど……この小説、全部で5章あるじゃない? でももしかしたら、第0章が必要なんじゃないかなって思うんだけど、どうかな?」

その赤字は、自分だけでは到底気づくことのできなかった矛盾であり、不可解であり、穴だった。ずっと同じ目線で見ていた風景を、角度を変えて見るような。そうして発見された小さな糸のもつれをほぐし、小さな穴を紡いでいく。まるで、大きな大きな1枚の布を織っていくような作業だ。

小さなもつれや穴をなくすには、もう一度0から考え直したり、自分の見たくない部分を見直したり、ダイナミックな変更を余儀なくされることもある。それはすごく、根気のいる行為だ。
それでも、改稿の前よりも良くなるという確信があるから、わたしたちは手を動かし続ける。ときには糸を解き、もう一度編み、新しく糸を付け足したりして。


柳下さんは言う。
「僕は君の言葉をたくさん聞いてきたから、どういう意図で書いたかもちろんわかる。でも、読者にはきっとわからないと思う」

そのたびに、わたしは内心驚いてしまう。
だって、柳下さんはこの原稿を何度も何度も読んでいる。多分、わたし自身よりももっと多く読んでいる。だけどそのたびに彼は、毎回「初めて」読んでいるのだ。

そうでないと、初めて読む読者の気持ちにはなれない。わたしたちにわかっていることが、読者にはわからないのではないかなんて、考えることができない。
ああ、編集者というのは本当に「読む」のが仕事なんだなと、そのたびに感服する。


「初稿で自分のために書き、改稿で読者のために読むんだ」
柳下さんはそう言った。
「これさえ覚えていれば、僕が死んでも君は大丈夫だよ」


ようやく、柳下さんの赤字が数えられるほどになってきた。
その赤字がなくなったときに、この小説は完成する。