ふたつめの「読む」の話

このあいだ、ある会話を耳にした。

最近本をつくった女性。
そしてそれを読んだ男性が、向かい合って話している。

男性は本を読んだ感想を、静かな口調で、だけど熱心に、女性に伝えていた。
「この本には、明確な『答え』が書かれていない。だけど、いろいろな『考え方』が書かれていて、いろいろな『考え方』があっていいのだということを伝えている」
細部は覚えていないけれど、そのようなことを話していたと思う。

女性はとても嬉しそうな顔をして、
「自分のつくったものを、意識していないところまで読み解かれるのって、緊張するけどすごく嬉しいですね」
と言った。

それを横で聞きながらつい、
「自分自身が読まれている感じですよね」
と、口を出しそうになった。ぐっとこらえていたけれど。



今日、原稿をひとつあげた。
まだこれから修正があるかもしれないが、ひとまず、0から最後まで書き切ることができて、ほっとしている。

書くたびに思うが、わたしにとって「書く」というのは「考える」ことだ。
あらかじめわかっていることを確認するために書くというよりは、わからないことをわかりたくて書いている。

この文章もそうだが、書きながら考えているので、どこにたどり着くのか全然わからない。
そして書き終わったときには、書く前にはわからなかったひとつの「答え」が、目の前にあるのである。

「書く」というのは、自分の中を開拓していく行為なのだ、きっと。
「答え」らしきものが見つからない日もあるけれど、開拓していけば小石やら小枝やらは絶対に見つかる。
それはいつか、手がかりになる。
だから見つからなくたって、書くことが大事。
そう言い聞かせながら書いている。



柳下さんが担当編集についてから、わかったことがある。
それは、「読む」には2種類ある、ということだ。

文章を目で追い、内容を理解する。これがひとつめの「読む」。
つまり、「答え」を理解する、ということだ。
なるほど、とか、それはどうかな、とか思いながら。

ではもうひとつの「読む」は何かというと、これは限りなく「書く」に近い「読む」だ。

読みながら、書いている人間とともに思考する。
そこにはタイムラグがあるので同時ではないけれど、その思考の道筋をただ見るだけではなく、自らもきちんと歩むのである。
くだんの男性の言葉に女性が感動したのは、彼がその道筋を一緒に歩んで、「こんな道筋だったね」と言語化したからだ。
「なぜその道を知っているの?」
まるで、ちょっと後ろからついてこられていたのに、無我夢中でそれに全然気づかなかったみたいな、そんな気分。
そして無我夢中であったからこそ、その道がどんな道であったかなんて覚えていなくて、「ほら、君はここを歩いてきたんだよね」と、赤鉛筆でなぞられた地図を見せられるような。

勝手に想像しているけれど、多分、彼女もそんな気持ちだったのではないか。
もしそうなら、それ、めちゃくちゃわかるなあ、と思う。


柳下さんは編集者としてわたしの原稿を読むとき、必ず、このふたつめの「読む」をする。
それはとても能動的な「読む」だ。まるで、食ってかかるように「読む」。

だから、彼の赤字には「修正」というものが存在しない。
あるのは「提案」と「賛辞」のみ。
なぜなら彼は、わたしのちょっと後ろで一緒に歩んでいるからだ。
ゴールに立って遠くから、「ちがうよ」「こっちだよ」とは絶対に言わない。
一緒にゴールを探しながら、「こっちに行ってはどうだろう?」「この道、すごくいいね!」「ブラーバ!」と言い続ける。

つまり、柳下さんにも「答え」がわかっていない。
わたしが書きながら考えているのなら、柳下さんは読みながら考えている。
この文章の行先は、いったいどこだろう?
そこでは、いったいどんな風景が見えるのだろう?

ふたつめの「読む」をする人は、「書く」人と共に開拓する。
わたしの中を、そしておそらく、彼自身の中を。
そこでかちっと重なった接点を、わたしたちは「共感」と呼んでいるんじゃないだろうか。



以前、柳下さんがふと言ったことがあった。
「どんな小説を書いているんですか、って聞かれて、こんな小説です、って答えられるようなら、小説なんて書かないよね」
「そうだね」とわたしは答えた。

「小説は、読まないとわからないもんなあ」

それはきっと、「書かないとわからない」ことと、とてもよく似ているのだろう。

「本当にそうだね」と、わたしはもう一度答えた。