「死なないで」なんて言うもんか。

本稿は、甲府塩山の編集者・小野民女史による寄草である。
過日、しかし、松の内のころ、吾人に宛て「おしゃべりしたいことがたまっています。ぜひ近々お会いしたいものです」と親しく私信が送られた。言葉を、その言葉の通り受け取るのは美徳であると考え、さっそく中央道を2時間走り、山梨へと行くことにした。
塩山は、もちろん歓迎をしてくれて、やがて秘蔵のワインや(吾人の体型を心配して野菜を中心とした)数々の手料理などが、食卓を隙間なく埋めることになった。
朋あり、遠方まで至る。亦、楽しからずや。

さて、和やかな歓待の先に「たまっている」ことを聞けば、しかして本題は「本連載への苦言」という、誠に知的好奇心をくすぐる展開だった。これは「そろべくそろ」という訳に、無論いかない。
言論は闊達であるべし。苦言反論を聞けることこそ、実に喜ばしい状態だ。
その場で、本連載への寄稿を依頼した。宵口には固辞されたが、夜半では根負けしてくれた。

山梨の閨秀にこのような文章を寄せていただき、誠に幸甚である。
以下にその全文を掲載する。

 
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この連載では、月に1回、柳下さんが指名した人が文章を書くことになったらしい。これから展開する私の勝手な言い分を伝えたら、「それを書いてくれればいいんだよ!」と驚くほど巧妙な方法で交渉され、以下の文章を掲載することになった。
 

現代的なテーマをはらんでいる気もするので、誰かの考えるきっかけにでもなればいいな、と一縷の望みを託すことにする。本音をいえば、私の斜な見方は、多くの読者を敵に回しそうな気しかしないけれど。場違いの身勝手は承知で連載自体にアンチテーゼを唱えるが、いずれこの文章自体も消えることが本望である。
 

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夫の仲のいい友人である柳下さんは、たびたび我が家にも遊びに来てくれて、家族ぐるみでお世話になっている。私の中での彼はとにかく朗らかで、テレビや雑誌にも登場するそれなりの有名人だ。
 

彼と同じように「それなりの有名人」である父と夫を持つ私は、エゴサーチを欠かさない。これは、現代人の性だと思う。彼らをめぐる言説に「そうそう」とうなずいたり、「分かってないな」とひとり悪態をついてみたり。SNSをやっている夫に至っては、「大先生」という敬称付きで、過度に持ち上げられてタグ付けされた投稿が、本人のタイムラインに流れてきたりするものだから、思わず苦笑。「その投稿、妻や子どもに見られていますよ」とツッコミたくなる。もしくは、ハートマークが踊るその文面、恋人に見られてもいいの? もちろん、本人の発信にもどうしても心が波立つこともある。
 

「柳下さん死なないで」という連載は、柳下さんのタイムラインで知った。「すごくいい」という知人のシェアでも目にするようになった。けれど、私は気が気じゃない。書き手の土門さんは誰から見ても上手な書き手で、だからこそ繊細な描写力で描かれる「編集者と私」の親密さって、身近な人が見たら嫉妬するんじゃないだろうか。私だったら絶対に嫉妬するぞ、と。
 

そんな至極身勝手な見解を、柳下さんはじめ、周りの編集者に話すと、「そんなことは考えたこともなかった。新しい視点だ」と言われて驚いた。けれど、同じように読者であるメディア関係でない知人たちに話すと、「私も心配になる」と同意を得られる。言葉を投げかける人と受け取る人、もしかしたらそこには大きな溝があるのかもしれない。
 

「情報のただ中にいる人」のかやの外だが親密な人にとって、ちくっと刺さる事象は意外と多い。そりゃそうだ。見なくてもよかったものが可視化されて、その情報の処理が上手にできるほどに、人間は進化していないように思う。しかも近頃は、情報と「いいね!」はセットなものだから、輪に入れない、もしくは入らない人の心の痛みは「よくない」として消化せざるをえなくなる。
 

情報化社会にアップデートされていない自分の感情や、その「よくないこと」に向き合う人間くさい、愛すべき(とあえて言いたい)やきもちや嫉妬についての告白を、たくさん見てきた。私はどうしても身体性を伴ったその苦しさに寄り添いたくなる。
 

「あそこに描かれる僕がすべてじゃない」と、良くも悪くも、心の闇なんて微塵も見せない柳下さんはのんきに笑うけれど、「すべてじゃない、ということに想いを馳せるには、体力がいるんです」と私は言いたい。「そろそろ、娘さんもお父さんの名前を嬉々として検索しますよ」とも。
 

そんな想いをぶつけてみたら、柳下さんは「娘のことは考えたことがなかったけれど、たしかに他の担当作家が見たら困るんですけど、でも、土門さんが書きたいものを書いて欲しいし…」と言う。「NOという機会はとっておきに残しておきたいんだ」とも。でも、目の前にいる人への「YES!」という肯定が抜きんでて得意な柳下さんだからこそ、適度な「NO」も必要だと私は思うのだ。だって、連載を読んで居心地の悪い思いをする人の顔が、具体的に浮かんでいるんでしょう? 私は小心者だから、「やめてー!」とすぐに叫んでしまいそうだけれど、すべてを達観している柳下さんは、心が広いか鈍感かどちらかだろう。

さて、試しに「柳下さん」と検索すると「柳下さん死なないで」と一番上に表示された。私はせめてこの順位を下にしたい。「死なないで」は、死にそうな人に発する言葉であって、見るたびに、私であってもドキッとするから。毎月3回、4(死)のつく日に更新されて、それが「僕が死ぬまで続く(柳下さん談)」という建てつけは、お遊びであったとしても、私は看過できない。
 

「死」はいなかるときにも、取り扱い注意の単語ではなかろうか。私が信じるもののひとつに言霊があって、大切な人が本当にいまわの際に立つまでは、「死なないで」なんて言うもんか、と心に決めている。

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