書くときに向かうのは、真っ白いキャンバス

書くことが苦しいかと聞かれれば、苦しい。
だけどわたしは書くことがとても好きだと思う。というか、書くことが必要だ。書くことは、狭くちっぽけな自分の部屋の窓を開け放すことに似ている。書くことは、理解できないほど広い青空をひとり見上げることに似ている。書くことは、静かな昼下がりに真っ白いキャンバスに向かうことに似ている。
だからわたしにとって書くことは必要なことであり、大切なことであり、好きなことだ。それは、幼いころからずっと変わらない。

ずっと文章を書いてきた。特にこの3年は、書くことが専業になり、たくさんの文章を書いた。それが仕事だからだし、それが自分にとって必要なことだからだ。「こんなに書いたら書くことが尽きないですか」と聞かれたことがある。わたしは「まだ尽きないです」と答えた。あのときの主語は、「書くこと」ではなく「書きたい気持ち」だったのかもしれないな、と思う。「まだ書きたいことがある」というよりは、「まだ真っ白いキャンバスに向かいたい気持ちがある」という感覚に近い。

色を乗せるのをためらわれるほどの、清潔で美しいキャンバス。そこにふと自分が変化を与えたとき、その点なり線は、急激に目の前で意味を持ち始める。あのときの涙ぐみそうなくらいの興奮を、感じたいなと思う。毎日、毎日、新しく。


最近は、筆が重たかった。1年続けた連載が書籍化され、2年半書き続けていた小説が入稿され、俗に言う「燃え尽き症候群」というものだろうかと思っていたが、どうも違うようだった。というのも、筆が重たくなったほかにもうひとつ変化があって、それはウェブ上の記事が読めなくなった、ということだったからだ。本は読める。でも、ウェブの記事が読めない。なぜなのだろう、と考えて、多分、ウェブの記事はSNSと有線で繋がっているからだろうなと思った。大抵の場合、SNSからのリンクでその記事にたどり着くので、その記事がどういうふうに人に受け入れられどう評価されているのかが、読む前にわかってしまう。「ああ、こういう書き方をするとこういう受け取られ方をするのか」そんなふうに読んでしまっている自分に気づき、これは良くないと思った。読むときに内面化された「人の目」は、書くときにももちろん内面化される。その「人の目」が増えれば増えるほど、自分の筆が重たくなるのは当然だった。

なんとなくだが、最近はそんなふうに、筆が重くなったり書くことに疲れている同業の方が、少しずつ増えている気もしていた。いや、そもそもそういう人は少なからずいたのかもしれない。自分が疲れていると、周りの人の疲れにも敏感になるものだ。

わたしは苛立っていた。文章を書こうとすると、「人の目」の存在が気になる。そんな「人の目」を考えなしに呼び入れ、さらに増殖させ、疲れている自分に苛立っていた。それで、「なんだかわたしは最近苛ついていて」と、柳下さんに話した。

それは、喫茶店でお茶を飲んでいるときだった。唐突にそう話し出したわたしを、柳下さんはおもしろそうに見た。そして「なるほど」と言い、「苛々の原因はなに?」と尋ねた。

「たとえば、わたしにはふたりの子供がいるでしょう」
とわたしは言った。
「その子供を育てるときに起きたことや感じたことを、わたしは月に二回、ブログに書いているよね」
「そうだね」
「だんだんそれが、書きにくくなっている。子育てのブログだからと言って、わたしは、心が温まるような文章を書きたいわけでも、泣かせるようなことを書きたいわけでも、赤裸々な文章を書きたいわけでもない、という気持ちになってくる。別に誰にそうしろと言われたわけでもないのに、『もっと正直に書きたいのに』と、ひとりで苛立っている。そういう気持ちを、子育てブログ以外にも感じるの」

一気に話したが、あまりうまく話せたように思えなかった。それで、自分自身のからだを手のひらでぺたぺたと示しながら、こんなことを言った。

「わたしは34歳で、お母さんで、文章を書く仕事をしている。そうでしょう?」
そうだね、と柳下さんは答える。

「でもわたしは、34歳のお母さんとして文章を書くことはできない」

すると、「きっとそういうことだよね」と柳下さんが言った。
「だって君は、『土門蘭』だからね」
その返事を聞いてわたしは、
「ああ、だからわたしは苛立っていたのか」
と腑に落ちた。


「だって君は、『土門蘭』だからね」
久しぶりにその言葉を聞いたな、と思う。
わたしが柳下さんと出会い、小説を書き始めるときに言われた言葉だ。
「君は『土門蘭』として書けばそれでいい。だって君は、『土門蘭』だからね」

その言葉にはそれ以上の意味は一切含まれない。期待も、要望も、何もない。
なのにわたしは、つい自ら自分自身のからだにぺたぺたとラベルを貼り付けてしまう。「34歳」だとか「お母さん」だとか、「小説家」だとか「ライター」だとか、なんやらかんやらと。そのラベルが「人の目」にリンクをはっているのだ、まるで心電図電極のシールみたいに。ラベルシールからは無数の線が伸びて、常に何かに見張られている気持ちになる。その目が、わたしの筆を重たくする。

「あのね、土門さん」
柳下さんは改めて座り直して、両手をテーブルの上で組み、
「僕は『君は常に土門蘭として書くべきだ』ということを、何度も何度も言っているよ」
と苦笑した。
「むしろ僕は、このことしか言っていない」

わたしも一緒に苦笑しながら「本当だよね」と答える。だけど苦笑しながらも、自分のからだが徐々に軽くなっていくのがわかった。ラベルシールは呪いのようなものだ。自ら貼り付けた、自分の呪い。いつもわたしは、柳下さんの言葉でそれを自覚する。そして、慌ててそのラベルシールをはがすのだ。
「まあでも、そう言い続けることだけが、僕の仕事なのかもしれないなあ」
と、柳下さんは言った。



色を乗せるのをためらわれるほどの、清潔で美しいキャンバス。
それに向き合うには、自分も清潔でいることが求められる。真っ白いキャンバスに筆を乗せられるのは、ラベルシールも貼られておらず、「人の目」もまとわりつかせていない、疲労や飽きとは無縁の、シンプルなわたし個人でいられるときだけだ。

真っ白いキャンバスに向かい合っているような気持ちがしないときには、一度自分のからだを点検しなくてはいけない。どこかにラベルシールが貼られていないか? 「人の目」が存在していないか? もしそれらがあるならば、ひとつひとつ自らの手で捨てていくしかない。それは容易なことではないけれど、その点検を行うことで、書くことはきっとずっと続けられるはずだ。

本来「書く」ということは、いつだって新しく、しがらみがなく、自由なことだったじゃないか。だから苦しくも楽しいことで、だからわたしは「書く」ことを始めたんじゃないか。
そのことを思い出して、何度もそこに帰っていきたい。ただの「土門蘭」でいられる場所に。

だから柳下さんは何度も言う。大切なことだから。書くことに、これ以上大切なことはないから。
「君は『土門蘭』として書けばそれでいい。だって君は、『土門蘭』だからね」