視線を合わせてまっすぐ呼ぶ声

この『柳下さん死なないで』というブログの弊害のひとつに、「見知らぬ人からこわがられるようになった」ことがあるらしい。柳下さんがそう言っていた。

「『あのブログを読んで、柳下さんってこわそうな人だなと思ってたんですよ』って言われちゃったよ」
と教えてもらい、「それは悪かったな」と思う。
こわそうに書いているつもりはないのだが、必要以上にこわそうに伝わっていたのなら申し訳ない。

だけど、実はわたしも柳下さんを「こわい」と思っている。
ただそれは柳下さんという人間性が「こわい」のではない。柳下さんはわたしに対しひどいことを言ったり声を荒げたことはないし、極めて温厚に接してくれるからだ。むしろ、こわくならないように気をつけてくれているとも言える。それなのに柳下さんは「こわい」なんて言われて心外だろうなと思う。

じゃあ、わたしは柳下さんの何をそんなにこわがっているのだろう。
みんなが何をこわがっているのかはわからないけれど、自分のこの「こわい」はいつかちゃんと言語化しないといけないなと思っていた。
このあいだ、なんだかそれがわかった気がしたので、ここに書いておこうと思う。



先週、長野に出張に行ったのだが、行き帰りずっと柳下さんが運転してくれていて、往復たっぷり6時間、さまざまな議題が車のなかであがったのだが、そのなかのひとつにこんな議題があった。

「これまで付き合ってきた恋人を、どのように呼んでいたか」

わたしが
「下の名前を呼び捨て、かな」
と即答すると、柳下さんはちょっとびっくりした顔をした。

「えっ、そうなの? 逆にきみも、名前を呼び捨てされていたってこと?」
「うん。それがいちばんシンプルな呼び方で、いいかなって思って」
「そうか。呼び捨てか」
そう言って、柳下さんはハンドルを握りながら考え込んだ。

「呼び捨てって、僕はしないなぁ」
「そうなの? じゃあなんて呼んでたの?」
すると彼はうーんと考え、
「下の名前に『さん』をつける」
と言った。

「だってなんだか、呼び捨てって強くない? 名前を呼んでいる人が、自分を支配している感じっていうか」
「えっ、そうかな?」
「僕は自分の娘の名前にも『さん』をつけるよ」
「えっ、そうなの?」

それで呼び捨てと「さん」付けで、例文を試してみることにした。
「蘭、今日は何してたの?」
「蘭さん、今日は何してたの?」

あー、とわたしは声を出す。
「たしかに、『蘭さん』のほうが丁寧に扱われてる感じするね」
「そうでしょう?」

だけど内心、架空の恋人に距離を感じてしまったのも事実だった。
「距離」というのをもっと掘り下げて言うと、自分は「その人のもの」ではないのだなという感情。恋人の腕の中から脱け出して、「彼のもの」ではなく、彼の目の前に立つ「ひとりの人間」として扱われているような気持ち。

つまり、関係性に依りかかっていないということ。
ひとりの足できちんと立ち、ひとりの人間として尊重され、向き合われている。
それはとても名誉なことであると同時に、少しこわいことでもあった。
なぜなら、自分の足で立っていないといけないから。依りかかれない、しがみつけない、自立した個人どうしとして向き合っている感じ。

「そうか。だから、柳下さんはこわいのか」
わたしはそうつぶやいた。

「えっ、どういうこと?」
彼は前を向いたまま驚いた顔をする。
「柳下さんの前に立つと、等身大の自分になる気がする。逃げも隠れもできない感じ。だから、こわいんだ」

呼び名というのは、一種の仮面のようなものだと思う。
たとえばわたしは子供から「ママ」と呼ばれるとき、「ママ」という仮面をつける。
仕事相手から「土門さん」と呼ばれたら「土門さん」になるし、女友達から「蘭ちゃん」と呼ばれたら「蘭ちゃん」に、男友達から「土門」と呼ばれたら「土門」になる。あだ名をつけられれば、そのあだ名に適した仮面をかぶるだろう。

いずれにしろ、そこにはなんらかの関係性が滲み出ている。
だけど柳下さんは、可能な限りその「呼び名」から関係性を剥奪しようとしているように感じる。仮面を外して、自分の顔を見せてごらんと言われているような。それはやっぱりこわいことだ。仮面を外されるのがこわいのではない、仮面を外したときに自分がどんな顔をしているのか。それが柳下さんの目に鏡となって、映されるのがこわいのだ。

高速道路を走る車の中で、そういえば昔、柳下さんがこんなことを言っていたのを思い出した。
「僕は相手に依存させないようにしているんだ」

「恋人であろうと、部下であろうと、上司であろうと、娘であろうと、バス停で隣に並んだ待合の列を作る相手だろうと、僕は関係性で人間関係の対応を決めない。相手のアイデンティティをそのまま受け入れる。そうじゃないとフェアな関係じゃないし、僕も楽しくないからね」

それを思い出して、
「視線を合わせてまっすぐ見てる感じ、容赦がない感じ、するよね」
と言うと、
「僕はその人のことを尊重したいだけなんだけどなぁ」
少ししょんぼりした様子で、柳下さんが言った。



長野から帰ってきた翌日、偶然、烏丸御池の本屋さんで柳下さんと出会った。
そのとき柳下さんは娘さんを連れていた。わたしは父親としての柳下さんをほとんど初めてちゃんと見たので、思わずその光景に興奮してしまった。

「柳下さんがお父さんの顔をしてる」
そう言ってはしゃぎながら、でもすぐに、心のなかでその言葉を撤回した。
柳下さんは「お父さんの顔」をしていなかった。もちろん「お父さん」なのだが、やっぱりふつうに「柳下さんの顔」をしていたのだ。
わたしは彼と娘さんのやりとりを見ながら、
「僕は自分の娘の名前にも『さん』をつけるよ」
という彼の言葉を思い出す。


わたしの目の前で、小さな女の子は、ひとりの女性として丁重に扱われていた。
彼女は柳下さんとそっくりな目で柳下さんのことをまっすぐ見、そして柳下さんも彼女をまっすぐ見ていた。

ふたりの関係性はまごうことなく「父と娘」だ。だけどそれは上と下の関係ではなく、一目で対等でフェアなものとわかる関係なのだった。肉親だからと粗雑に扱わず、依りかかり合わず、ひとりの人間どうしとして向き合う関係。

「これからどこかへ出かけるの?」
そうわたしが尋ねると、彼はわたしに対してではなく、小さな女の子に目線を合わせ、
「そうだな。これから、お茶をして甘いものでも食べるのはどうだろう? 僕に付き合ってくれるかい?」
と丁重に提案した。
それを受け彼女は「うん」とにっこり笑い、彼の腕に自分の腕を絡ませる。

愛らしい彼女のひたいを見ながら、大きくなるのが楽しみだな、とふと思う。
彼女はきっと「ひとりの人間」として見られることで、足腰の強い女性になるんだろう。関係性を抜きにして「ひとりの人間」としてまっすぐに見られる経験は、それだけ人を鍛えていき、自立へと向かわせていく。


わたしがこわがっているのは、そんな彼の「目」だったのだな、と思う。
より正確に言えば、彼の「目」にうつる「自分の顔」。
関係性という仮面を外した「自分の顔」がいったいどんなものなのか、それが露呈するのを、わたしはこわがっているんだと思う。

だんだん慣れてきたような気もするけれど、と、ふたりの後ろ姿を見ながら思った。

「土門さん」
と呼ばれるたびに、しゃんと背筋が伸びる気がする。
もしかしたらわたしも鍛えられていっているのかもしれない。