「君が心を開けば、世界もまた心を開くよ」

わたしは友達が少ない。
いまに始まった話ではなく、これまでもずっとそうだった。

 

ひとりひとりのことは好きなのに、一緒にいるとどう振る舞ったらいいのかわからなくなる、というのだろうか。
話すことがなくなったり、用事が終わったりすると、
「もう帰ったほうがいいのではないか」
と思いそわそわしてくる。
一緒に話していてとても楽しいのに、この楽しさが途切れてしまったらどうしようという不安感や、何か話さなきゃという焦燥感に襲われる。
だからなのか、結果的にひとりでいることが多くなり、大学時代はほとんどひとりで行動していた。お昼ご飯も、トイレも、授業も、バイトも、余暇も。

食堂で何時間もだべっている子たちを見ると、すごく羨ましくなった。
いいなあ、わたしもあんなふうにできたらいいのにと、いつも思っていた。
でもどうしたらあんなふうにできるのかわからなくて、性格的なものかなと次第に諦めるようになった。

なんていうか、わたしにとっては友達に会うことはちょっとした「非日常」なのだ。
ひとりで部屋でコーヒーを淹れて飲むのが「日常」で、友達と食堂でほうじ茶を飲むのは「非日常」。
よそゆきの気持ち、という感じなのかもしれない。

だけど、食堂でだべっている子たちは、それぞれがそれぞれの「日常」のなかに含まれている感じがした。
ひとりで「日常」を過ごすわたしにはその様子が豊かに見え、とてもうらやましかった。


このあいだ、ブックフェア出店のために台湾に泊りがけで行ったとき、一日目に隣のブースで出店していた『ナイスガイ』というフリーペーパーを作る男の子3人組に取材をした。もともと柳下さんと彼らは友達で、この取材も柳下さんが組んでくれたものだった。

彼らはわたしと同世代なのだが、まさにわたしの憧れている「友達」という関係性を体現している3人組で、取材後つい、「いいなあ、友達がいて」と漏らしてしまった。

「土門さんは友達が少ないんですよ」
と、そこに同席していた柳下さんが笑う。
「そうなんです、なかなか友達がつくれなくて」とわたしが言うと、ナイスガイ編集部のひとりである太郎くんが目を丸くして
「え? 柳下さんは友達じゃないんですか?」
と言った。

その言葉にわたしは驚いて、
「柳下さんは、友達じゃないですよ」
と反射的に返してしまった。

すると、
「ええ!?」
と柳下さんが大きな声を出した。
「え!?」
と、わたしもびっくりする。

「僕たち、友達じゃないの!?」
「えっ、友達なの!?」
びっくりし合っているわたしたちを見て、太郎くんたちはげらげらと笑うのだった。


翌日になっても柳下さんはそのことを根に持っていて、ことあるごとに
「まあ僕は、君の友達じゃないからな……」
と言った。
台湾の街を歩きながら、
「いや、そういうわけじゃなくて……」
とごにょごにょしてしまう。
わたしたちは「編集者と小説家」だと思っていたので、「友達」でもあると言われてびっくりしてしまったのだ。それでつい反射的にあんな反応をとってしまっただけで……と、何のフォローにもなってこないことをごにょごにょ言った。

だけど、そもそも「友達」って何だろう。

そう思って、
「柳下さんにとって『友達』の定義って何なの?」
と聞いてみた。
すると、柳下さんは、
「目的もなく一緒にいられる人だよ」
と即答した。

「目的もなく?」
わたしが訝しげに聞き返すと、柳下さんはうなずいて、
「君と作品を作ることはもちろん大事なことだ。でも、僕は君が小説を書かなくなっても、お茶をしたり話がしたいと思っているよ」
と言った。


わたしは眼から鱗が落ちたような気持ちだった。

もともとわたしたちは、友達ではなかった。
「編集者と小説家」という関係性から始まって、「小説を書く」こと一点でつながっていた。
だけど、彼の言うとおり、もしわたしが小説を書かなくなってもお茶をしたり話ができるのだとしたら、一緒に作品を作るあいだに、「小説を書く」こと以外にも点が増えてきたということなのかもしれない。

なんと言ったらいいのかわらず、わたしはとっさに
「ありがとう」
と言った。
それを聞いた柳下さんは笑って、
「まあ、君はそんなこと思ってないんだろうけどね。ほら、僕たち友達じゃないからさ」
と肩を落とす真似をする。
「そんなことないよ」
わたしはまた、ごにょごにょ言った。
そして、わたしにとっての「友達」の定義って何だろう?と考えた。
それに対する答えは、なかなか出なかった。


柳下さんの言葉を聞いて気づいたのは、わたしは逆に「目的がないと一緒にいてはいけない」と思っていたな、ということだった。
柳下さんにだけじゃなく、およそすべての「友達」に対して。

一緒にいたら何か話さないといけない、何か意味のあることをやらなきゃいけない、楽しんだり楽しませたりしなきゃいけない、と。
でないと、わたしがここにいていい理由が、わからない。
だからわたしは友達といると頑張ってしまっていて、だから友達はずっと「非日常」のままだったのだ。

ひとりでいるときと同じように、何もしないでいい他者。
だけど、ひとりでいるときとは違う感じ。
大学の食堂で見かけた「友達」という関係は、確かにそういうものだったような気がする。
それぞれがそれぞれの「日常」のなかに含まれている、あの感じ。
それぞれがあらゆる点でゆるくつながっている、あの感じ。


柳下さんが編集につき、作品を作り始めてからずっと、自分に言い聞かせてきたことがある。
それは、
「作品がすべてだ」
ということだ。
わたしと柳下さんがどれだけ仲が良かろうが、気が合おうが、「作品」には関係がない。そしてわたしたちは「作品」でつながっているのだから、わたしの書いたものがしょうもなければ柳下さんは離れるだろうし、わたしが小説を書かなくなったら柳下さんはいなくなるのだろうと思っていた。

柳下さんだけではない。
仕事をともにする編集者やライターの方々、デザイナーやフォトグラファーの方々、読者の方々……「書く」ことでつながったみんなに対してそう思っていた。
だから、
「良いものを書かないと、良いものを書かないと」
と、ずっと思ってきたような気がする。
そうでないと一緒にいられない、と。


「僕は君が小説を書かなくなっても、お茶をしたり話がしたいと思っているよ」
そう言われたときに、これまで言い聞かせていた前提がぐるんと回転した気がした。
ほんとかな、と思った。ほんとにわたしが小説を書かなくなっても、一緒にいてくれるのかな、と。

じゃあなぜ一緒にいるの?
自然と湧き上がってきた疑問には、すでに柳下さんは答えている。

「目的もなく一緒にいられる人だよ」

つまり、目的なんかなくても、理由なんかなくても、一緒にいられるから「友達」だってことだ。

でも、確かにそうかもしれない。
わたしだって、
「あの人は、良い作品を作るから一緒にいよう」
「あの人は、良い仕事をするから一緒にいよう」
なんて思ったりしない。
もちろん「良い作品」「良い仕事」はその人の魅力の一部だけど、それが目的で一緒にいるわけではない。
なんとなく会いたいなとか、なんとなく話したいなと思うだけで、そこに明確な理由はない。
それなのに、自分だけそういうものを求められていると、勘違いしていたのかもしれない。

「もしかして、柳下さんのほかにも、そう思ってくれてる人がいるのかな」
そうこぼすと柳下さんは、
「そうだと思うよ」
と言った。

「みんなは君のことを友達だと思っているのに、君がそう思っていないだけなんじゃないかな」

そうかもしれない、と思った。
みんなはわたしのことを友達だと思っていたのに、わたしはそう思っていなかっただけなのかもしれない。


「『ナイスガイ』の3人だって、もう君のこと友達だと思っていると思う」
「そうかな?」
「そうだよ。君が友達だと思えば、友達だ」

黙り込んだわたしに、柳下さんは言った。
「君が心を開けば、世界もまた心を開くよ」


もう12月だというのに、台湾の街は春みたいにあったかい。
アロハシャツの柳下さんの横を歩きながら、わたしは額の汗をふき、シャツの長袖をまくりあげる。

「友達が増えてうれしい」
そう言ったわたしに、柳下さんは微笑み、
「まあ僕は、君の友達じゃないけどね!」
と言った。

「柳下さんって、わりと根に持つタイプなんだね」
わたしがそう言うと、柳下さんは笑った。