「書けない」と「読みたい」

全然文章が書けないというときがある。今がまさにそうだ。書きたいことがないのではなくて、書きたいことはあるのだけどそれを言葉に変換するパワーが乏しく、スピードが遅くなっている、という感じかもしれない。「どう思いますか?」と不意に聞かれて、「えーっと」と、慌てて頭の中の絵を把握するところから始める感じ。無理に書こうとすると、焦ってしまってなぜか涙が出る。子供が授業中に急に当てられて、言葉が出てこなくて代わりに急に泣き出してしまう、あの感じに似ている。

この間、本が一冊出た。『経営者の孤独。』というタイトルの本だ。今月末にはもう一冊本が出る。そちらは長編小説で『戦争と五人の女』という。どちらもものすごく労力をかけた本だ。満身創痍になりながらも、とにかく完成させなくちゃと必死で、わたしは原稿といつもぎりぎりのところで格闘していた。余裕なんて一切なかった。

5月がいちばんきつかった。締め切りまで絶え間なく全力疾走をしていたような1か月。6月の頭に脱稿して、ほっとして、なんだかそれから調子が崩れた。疲れているのか、燃え尽き症候群というやつか。そんなことを思いながら、変わらず来る締め切りに合わせて、それからもいくつか原稿を書いた。でもだんだん、原稿を書くスピードが落ちてきて、原稿に向き合うのもなんだか怖くなってきた。できたら逃げ出したい。向き合いたくない。それが7月に入ってもまだ続いている。


ついこのあいだ、ふたつの締め切りがあった。
ひとつめの原稿は、普段の1.5倍時間がかかった。それでもなんとか書き上げて柳下さんに送ると、彼は「おもしろいね」と言った。よかった、おもしろかったんだ、とほっとしていると、どうやら原稿のことを「おもしろい」と言ったのではなかったらしい。
柳下さんは、「構成がゆるい。いつもはもっとフォーカスが強いのに。どうやら君は不安定だね?」と続けた。わたしはぎくりとした。まさにその通りだったから。柳下さんは、そのわたしの変化を「おもしろい」と言ったのだった。

ひとつめの原稿については改稿でなんとかなったけれど、その後とりかかったふたつめの原稿にいたってはますますひどくなり、まったく書けなくなってしまった。
いつもは楽しく書ける原稿なのに、今度ばかりは何度書こうとしてもだめ。書いては消し、書いては消しを繰り返し、気付いたら締め切り当日の夕方になっていた。
わたしにはこどもが二人いるので、夜はほとんど執筆できない。もうだめだな、今日は締め切りが守れないな。そう思って、そこでようやく柳下さんに「全然書けない」とメッセージした。
「もう何度も書き直しているんだけど、全然書けない」
焦燥感と情けなさで、涙が流れて止まらなかった。

そのあと柳下さんから電話が来た。書けなくて泣いていたので、満足に返事もできない。柳下さんは、「かわいそうに」と言った。そして「君は本当にすごいね」と。
文章が書けないと言ってめそめそ泣いているわたしのどこがすごいのか。そう尋ねると、「だって君は『書けない』ということにちゃんと向き合っているじゃないか」と言う。

「逃げずにずっと書こうとしていたんでしょう? ひとりで『書けない』ことと向き合っていたんでしょう? それはすごいことだよ」 

それでも、柳下さんは「書かなくてもいいよ」とは言わない。「今日は書けないかもしれない」と言うと、「それでもいいよ」と言ってくれるけれど、でも「書かなくてもいいよ」とは自分からは決して言わない。

柳下さんは、
「『書けないこと』と『生活』について読んでみたいな」
と、言った。

わたしはそれを聞いて、ほとんど降参した。
グラウンドで膝に手をつき「もう走れない」と言っているのに、「今度はあっちのコースを走ってみようか」と言われているみたいだ。
「書けない」と言っているのに「読んでみたい」と言われて、わたしは泣きながら笑ってしまった。

ああ、この人は本当にわたしの文章を読みたいと思っているんだな、と思う。
わたしが「書けない」と思う以上に、「読みたい」と思っていて、それ以上にわたしが「書ける」と思っている。
となると、書かないわけにはいかなかった。「読んでみたい」と言われたら書くしかない。さすが編集者だな、かなわないな、と思った。

結局わたしはその夜、子供達が晩ご飯を食べている間にテーブルの隅で原稿を書き上げた。言われたとおり、「書けないこと」と「生活」について書いた。締め切りにはちゃんと間に合った。


柳下さんに「書いたよ」と連絡すると、「待ってた」と言った。やっぱりだ、とわたしは思った。

「君が書けるって知ってたよ」
わたしはわたしが書けるって知らなかった。
ただ、「読みたい」と思われているのはわかった。だから書いた。
わたしの「書けない」が編集者の「読みたい」に負けた。まるで綱引きをするみたいに、ずるずると引っ張られて。だからわたしは書けたんだ。


これから何度もこういう日が来るんだろう。「書けない」ことと向かい合い、「読みたい」人に支えられ、なんとか書いていくんだろう。
そうして書いた文章は、小さな作品となり、わたしの一部となっていく。そのたびわたしは少しずつ大きくなって、きっとまた、新しく「書ける」ようになるんだろう。


そう言い聞かせて、この文章も書いている。