文章の癖、思考の癖

わたしの文章には読点が多い。
「読点が多いですね」
という指摘はこれまでに何度も受けていて、自分でも結構気にしている。書き終えて、読み返してみて、目につくところは削っていく。それでもまだたまに言われるので、相当読点が多いのだと思う。

あと、ひらがなが多い。
これも、別に多くしようと思っているわけではない。自然とひらがなが多くなってしまうのだ。目の前の画面に並ぶ文字の密度が高くなると、なんとなく薄めたくなる。多分、自分が読みやすいように書いているのだと思う。

おそらく癖なのだろう。
だけど、この癖について、柳下さんから何か言われたことは一度もない。


何度か指摘されたことがあるのは、文章の順番についてだ。
たとえば、わたしが小説のなかで「殴られている人と殴っている人」と書いたとしよう。すると彼は「殴っている人と殴られている人」と書いたほうが伝わりやすいのではないか、と言ったことがあった。

それを聞き「本当だ」とわたしは思った。能動態が先で受動態があとの方が、ふたりの関係を把握しやすい。それで、そう書き換えることにした。

こういう、スムーズでない文章を書くこともよくある。
きっと今も書いているのだろうけれど、自分では気づかない。いつも人から指摘されて気づくのだ。そして書き換えてみると、「さっきよりも読みやすくなった!」と思う。


「わたし、文章の順番がおかしいことがよくあるよね? 読んでいると、ちょっと詰まってしまうような文章っていうのかな。読者にとってはすっと入ってこないみたいな」

そう言うと、柳下さんは即座に「それでいい」と言った。

「君はその書き方のままでいい。何も変えなくていい」
「直さなくていいの?」
「直す必要はまったくないよ」

「そうなのか……」と言ったら、柳下さんはこう言った。

「君の文章は、君が考えた順番のとおりに書かれている。だからそれを気にすることはないんだよ」

それを聞いて、自分の文章は自分の「考え」の軌跡みたいなものなのかなと思った。
「読点が多いのも、ひらがなが多いのも、そういうことだったのか」
そう言うと、柳下さんは「どういうこと?」と聞いた。
わたしは、これまでに受けてきた指摘について話す。

「多分、わたしの読点は思考の息継ぎなんだね。そして、複雑なことをなんとかわかりやすくしようと、ひらがなで考えている。だから、読点とひらがなが多いんだね」

すると、柳下さんは言った。
「言葉を発するのが人類の条件。文字を書くのが文明の条件」

「なに? それは」と聞くと、ある言語学者の言葉なのだと言う。

話し言葉と書き言葉って違うよね。そしてもうひとつ、考え言葉というのもまた存在しているように思うんだ。君のその点の位置は、考え言葉のなかに存在しているような気がするな」

それを聞き、なるほどなとわたしは思う。そして、心の中でつぶやいてみる。
「ものを考えるのが人間の条件」

わたしはきっと、書きながら考えているのだ。
書くことで、人間でいようとしているのかもしれない。



とにかく何も気にせず書け、と言われたのが嬉しかった。
君は何も気にせず思考の海を泳げ、と言われているようで。

柳下さんは、美しいフォームに整えるよりも、泳ぎやすいフォームを追求する。
そうすることでしか大きな海を渡ることはできないと、知っているからかもしれない。

「君が書きたいものを書けるようになるにはどうしたらいいのかしか考えていない」
彼はずっとそう言い続けている。それが彼にとっての「編集」なのだと。


わたしはわたしの泳ぎ方で、海を泳いでいく。