嫌いなものの話

先日柳下さんとお酒を飲んだとき、つい気が大きくなって、自分の「嫌いなもの」について話をしてしまった。
「嫌いなもの」について話すときには、往往にしてその「嫌いなものを作った人」の話になりがちである。簡単に言えば、それは悪口なのだった。

「ああ。もうやめよう」
話しながらすでに自己嫌悪が始まってしまっていたわたしは、途中で話をやめ、口元をおさえながら言った。
「こんな話をしたらあとから後悔するに決まってるんだから」

「君は自分の嫌いなものについてあまり公言しないよね」
柳下さんが、烏龍茶を飲みながらおもしろそうに言う(彼はこのとき運転をしていたのだ)。
「それはどうしてなの?」

「公言しても、何もいいことがないということに気づいたから」
そう答えると柳下さんは頷き、
「うん、賢い判断だ」
と言った。
そして、「それで?」と続きを促した。

言い淀むわたしに、なおも彼は言う。
「大丈夫。僕は君に共感もしないし同調もしない。君の嫌いなものの話を、ただ聞くだけだ。これなら陰口にならないし、君が醜くなることもない」

ふたりして、ここにいない誰かの陰口を叩いている姿は醜い。
だけど、わたしが「嫌いなもの」についてひとり意見を述べるのはいいというのだ。
変な理論だな、と思ったが、なんだかそれを聞いて安心した。
「嫌いなもの」をきちんと話せる場所がある、そういうことは大事なのかもしれない。

「最近、嫌いなものがだんだん増えてきてしまって」
そうこぼすと柳下さんは、
「それは自然なことだよ」
と言った。

「君はここ一年半、ずっと小説を書いているでしょう。小説を書くということは、自分の美意識を掘るということでもある。その美意識が確立すればするほど、君はこれからより多くのものを嫌うようになると思うよ。そしてそれは、全然悪いことではない。自然現象だ」



わたしの「嫌いなもの」は、誰かの「書いたもの」であることが多い。
最近ではほとんどすべてが、それだ。
わたしにとって「書くこと」が、より大事になっているからだと思う。
柳下さんの言葉を借りれば、「美意識が確立しつつある」。

「君はどんなものが嫌いなの?」
改めてそう聞かれて、わたしは少しのあいだ考えた。

「変なにおいがする文章、かな」
「変なにおい」
「うん、読むと、においがしない? 化粧くさかったり、芳香剤くさかったり」

うまく言えないんだけど、と言うと、柳下さんは
「いや、よくわかるよ」
と言った。

もっときちんと言語化すると、それは「他者に認められるために書かれたもの」なのだと思う。
そのとき、言葉は、テーマは、作品は、他者に認められようとする作者の踏み台になる。
土足で踏まれた言葉を、テーマを、作品を見ると、わたしは「許せない」と思う。
言葉は、テーマは、作品は、個人の踏み台のためにあるのではなく、もっと高い場所にある、手を伸ばした先にある大きな存在なのだから。

そういったものを見ると、「嫌いだな」と思う。
そして、それと同時にこわくなる。

「自分はそれをやっていないと言えるのか?」

だからわたしは、「嫌いなもの」について話すのが、いつだってこわい。
言いながら自己嫌悪に陥るのは、自己批判の準備ができていないからだし、あとから後悔するのは、公言することで自分の逃げ道をなくすことでもあるからだ。
「嫌いなもの」の成分は、わたしにも明らかに含まれていて、いつ芽を出すかわからない。そのことに、自分が向き合うこわさなのだと思う。

柳下さんは、わたしにはこれから嫌いなものが増えていくと言った。
美意識が確立し、研ぎ澄まされていくごとに、自分の外にも、自分の中にも、許せないものが増えていく。
つまりそれは、他者のなかに見出した「嫌いなもの」を、自分のなかにも見出し、それを潰し殺していく作業でもある。

なぜ柳下さんがわたしの「嫌いなもの」について知りたがるのか、わかった気がした。
編集者は本当にいろいろな情報を集めながら、小説家と帆走してものをつくるのだな、と思った。



「柳下さんって、嫌いなものはあるの?」
いつだったか忘れてしまったけれど、そう質問したことがある。彼は、そのとき「ない」と即答した。「嫌うんじゃなくて、興味をなくすかな」そう答えたのだ。

わたしはこのとき、もう一度質問した。
「柳下さんって、嫌いなものはあるの?」
すると、彼はこう言った。

「あるよ。殺してやりたいなって思うくらい嫌いなもの」

わたしはその答えに驚いて、やや緊張しながら尋ねる。
「それはなに?」

柳下さんはにこやかに言った。
「美意識のかけらもなく、つくられた本だよ」