小説はすでに君のなかにある

初稿を書くときに、柳下さんによく言われていたのは、
「駄文を垂れ流すつもりで書いてごらん」
だった。

その理由として、
「駄文だと思っているのは君だけだから」ということと、
「改稿で刈り込むためには枝葉が多いほうがいいから」ということ、
そして「小説はすでに君のなかにあるから」ということを、彼は挙げていた。

わたしはその言葉どおり、白紙の上にどんどん書いていった。
その際には、あまり考えていなかったように思う。手が動くがままに任せる。動かなくなったら立ち歩いたり、そうじをしたり、本を読んだり、コーヒーを飲んだりする。そしてまた原稿の前に戻る。手を動かす。その繰り返しだった。

「書け書け土門蘭」
ということしかわたしは言われていなかった。
だから言われるがままにただただ書いた。思うよりもさきに手が動いた。目の前に現れた文字を見て、驚くこともあった。「こんな言葉がわたしのなかにあったのか」と。そして「そうか」と思い、また手を動かした。

わたしは
「小説を書くって、考えることと似ているな」
と思った。

すでにある答えを、わたしは書いていない。
それはひとことで言えばすむことなので、小説にする必要がない。
わたしが小説を書いているのは「わからない」からなんだ、と思った。


そうしてできた初稿は、五章というていをなし、荒削りのかたちでわたしたちの手の上にずっしりと乗った。
何度も何度も読んだその原稿を、また最初から読み直す。
気になる箇所や付け足したい・書き直したい箇所に、著者校としてわたしが赤字で印を入れ、そのあとに柳下さんが編集校として青字でコメントを入れる。
そして書き直してできあがるのが、第二稿である。


初稿に入れられた青字からは、柳下さんの「?」が聞こえてきた。
「彼女は彼の妻についてどう思っただろう?」
「彼と実家との関係をもう少し読みたい」
「その行動は、彼に対する否定なのだろうか?」

なかでもわたしを悩ませたのは、
「ミョンボとは何か?」
という問いである。

ミョンボとは主人公の叔父にあたる人間で、わたしはなんとなく彼のことを考えるのがいやでいつも後回しにしていた。彼に関する記述も、最初はかなり少なかった。だけど、柳下さんが何度もミョンボに対する疑問を口にするので、彼のことを書かざるをえなかった。

なぜいやだったかというと、「わかるはずがない」と思っていたからである。
ミョンボは多分、わたしがこの作品でもっとも「わからない」人物だった。

それなら書かなければ良いものを、書いてしまったのだからしかたないのだな、と思った。わたしは、自分のなかにある欠片を吐き出したのだ。その欠片が出るということは、わたしのなかにミョンボがいるということである。

柳下さんは決して手をゆるめない。
「ミョンボとは何か?」
星マークをつけ、下線をつけ、彼は初稿にそう繰り返し書いた。


わからないことを考え続けるのはつらいものだ。
だけど、考え続けていた。
わからなくてもいいから、近寄ってみようと思った。
「わかる」というのは、天から降ってくるものではない。
地から積み上げていくものだ。
そう自分を言い聞かせて、逃げだしたかったけれど、「ミョンボって何だろう」と、いつもかすかに考えていた。


昨日、じっと初稿を眺めていた。
頬杖をついて、テーブルの上の、赤や青や、今や鉛筆や緑色でごちゃごちゃになった原稿を、じっと眺めていた。

「あ」
わたしはつぶやき、蛍光ピンクでマーカーを引く。
ミョンボがしゃべった言葉の箇所である。

わかったかもしれない、と思った。
わたしは、急いでメモをとった。ミョンボって、本当はこう思っていたんじゃないだろうか?

手を動かしながら、涙が出た。
初めて、彼の心に触れたような気がした。
答えは初稿にあったのだ。すでに彼は、ここで声をあげていたのだ。
わたしはそれを、見落としていた。


「小説はすでに君のなかにある」
柳下さんの言ったことは本当だったんだな、と思った。
疑っていたわけではもちろんないけれど、昨日はそれが、身体性をもって理解できた瞬間だった。
答えは別の場所ではなく、自分の書いたもののなかにあったのだ。

仏師は仏像を作るのではなく、樹の中から仏様を取り出す気持ちで彫るのだという。
そのことがきのう、なんとなくわかった。
だから初稿という幹を枝葉を、できるだけ繁茂させろと柳下さんは言っていたのだ。



今日電話でそのことを言ったら、柳下さんは大きく息をつき、
「本当によかった」
と言った。

「早く読みたいな。それを読むのが、心から楽しみだよ」