柳下さんが煙草を吸うときの話

柳下さんは普段煙草を吸わない。

それでも時々吸うことがあって、そういうときはアメリカンスピリットを吸うようだ。
彼は自分のパフォーマンスを落とすことを極端に嫌がる性格なので、煙草を吸うことはそれに矛盾しているように見える。
だから柳下さんが煙草を吸うのには何か理由があるのだろうな、と思っていて、
「珍しいね、煙草吸うの」
といつも声をかける。
柳下さんは短く煙を吐きながら答える。いつも同じ答えだ。
「感覚を少し鈍らせたくて」

わたしもかつて喫煙者だったので経験したことがあるのだけど、煙草を吸うと頭が少しぼんやりするのだ。なんていうか、緊張感がなくなって輪郭がふんわりする感じ。それが気分転換になる人にはいいのだろうけれど、わたしの場合はなんだかやる気がなくなってしまうので、仕事中には吸う気にはならない。それで、一作目の小説を書くときにやめてしまった。

柳下さんは「感覚を少し鈍らせたい」と言ったけれど、時々感覚が鋭くなりすぎることがある。それはわたしも彼のもとで書く小説家として感じることがあって、たとえば、わたしが今まさに考えていることをメッセージで送ってくるとか、わたしが今どういう状態にあるのかを当ててしまうとか、勘が良くなりすぎるのである。

どういうときにそうなるかというと、英語圏に少し長く身をおいたときとか、あるいはタスクが増えて忙しくなって、おそらくあまり寝てないときとかにそうなるようだ(土門調べ)。


編集者として、勘が良くなりすぎるのはあまり良くないことらしい。
「僕、原稿を何度も何度も読んでいると、作家がどんな状態でどんなふうにこれを書いたのか、わかるときがあるんだ。でもそれが進みすぎると、良くない」
「作家が怖がるから?」

いや、と柳下さんは言った。
「それもまあ、ないことはないけれど、編集者として少し先を読むのと、読者として少し遅れて読むのと、両方の目を持っていないといけないからね。あまり勘が働くと、読者の目が持てなくなる」
なるほど、とわたしは言った。


なんだかそのとき、おかしいかもしれないのだけれど、わたしはこう思ったのだった。
「人は本当に孤独だ」と。

他人のことが仮に完全にわかったところで、それは何も生み出さないのかもしれない。
必要なのは、独立した個人であること、そして独立した個人どうしが、「最適な距離」を持つこと。おそらく、その距離からのみ何かが生まれる。何かが立ち上がる、と言ったほうがいいかもしれない。違う生き物として、何かが立ち上がる。

わたしたちは一体にはなれない。ひとつになれる、完全にわかりあえるというのは幻想だ。そしてその幻想が、いろいろな不幸を産んでいて、わたしたちは(わたしは)時に「最適な距離」をとることを忘れる。そして、さみしいだとか、かなしいだとか言う。

すべてをさらけだし、すべてをさらけださせたところで、そこで何が生まれるのか。あるのはグロテスクな裸だけ。その事実だけでは、何も生まれない。わたしたちの「間」にしか、何かは生まれない。

その「間」を保つよう、近づきすぎないように、柳下さんは煙草を吸う。
見えすぎないよう、煙で自分のまわりを覆う。そうして見る「裸」は、おそらく毛穴のひとつひとつまで見えている「裸」よりも、ずっと意味があるような気がする。煙は優しさであり、わきまえのようなものだと思う。

そしてもっとも大事なのは、毛穴がある、ということをわかった上でそうしていることなのかもしれない。

それはわたしには、とても大人の行為のように見えるのだ。