「そもそも編集者とは何だろう?」

今書いている長編小説の改稿がいったん終わり、去る9月27日に第二稿を提出した。

それはもちろん、あくまで第二稿であって、最終稿とは限らない。
第三稿も、第四稿も、もしかしたらもっと先の稿も、ありえる。
柳下さんは「デビュー作なのだから、ゆっくり納得するまでやろう」と言う。
ふたりで組むことになったとき、彼は
「僕は仕事のしかたがしつこいから、あなたが嫌にならなければいいのですが」
と言った。わたしはそれを聞き、へばるまで書き続けようと思った。へばるまで書けたら本望だとも。
最近、そのことをよく思い出す。



次の月曜日に、『言志の学校』というフリーペーパーやZINEをつくる学校で、柳下さんとわたしのふたりが、講師としてそれぞれ話すことになった。
わたしは「ライティング」について、柳下さんは「編集」について話す。

このあいだそれについて電話で話していて、
「編集かあ。編集って何だろうね?」
という話になった。

「そもそも編集者とは何だろう?」

柳下さんにこう問われたとき、わたしの脳内で8月のある日のシーンが浮かんだ。


「今書いている小説がまだ完成していないのにこんなことを言うのは何だけど、次の小説はどんなものを書こうね?」

そう、柳下さんに昼下がりの喫茶店で言われたのだ。
わたしはなんだか嬉しくなって、
「実は、書きたいものがあって」
と言った。

嬉しくなったのは、「今書いている小説がまだ完成していないのにこんなことを言」っていいのかどうかわからなかったのが、柳下さんのその発言により「言ってもいいんだ」と思ったからである。つまりわたしの頭の中には、すでに次の小説のことがあった。

そのときの柳下さんの顔は、ちょっと忘れられない。
わたしが「実は、書きたいものがあって」と言った瞬間、すごく驚いたような、すごく喜んでいるような、そういう顔をした。

わたしは内心びっくりしながら、こうこうこういう人たちがいて、こうこうこういう関係で、こうこうこういうことをし始める、そういうのを書きたいと思っているんだ、と粗い設定を話した。

すると柳下さんは、テーブルの上で手を組んだまま下を向き、大きくため息をついた。
そして顔を上げ、一句一句区切るようにこう言ったのだ。
「すごく、すごく、いいね」


わたしはそのとき、柳下さんの根源的な喜びの発露を見た気がした。
まだこの世に生まれていない作品が放つとてもかすかな、消えてしまうかもしれないほどかすかな光を見て、心から喜んでいる。

その様子を見て、
「ああ、この人は編集者なんだな」
と思った。


それからわたしたちは主人公と、主人公のパートナーの話をした。
こんな仕事をしているかもしれない、こんなやりとりがあるかもしれない、こんな部屋に住んでいて、季節はきっとこれだろう……

「すでにこの小説がいとおしいよ。なんだか泣きそうなくらい」

それを聞いて、わたしも泣きそうになっていることに気づいた。
まだ一文字も書いていない小説に感動して泣いているなんて、他の人が見たらきっと気味悪がって笑うだろう。



「そもそも編集者とは何だろう?」
電話口で放たれたその言葉に、わたしはこう答えた。

「わたしにとっては、『読んでくれる人』だよ」

ひとつの原稿を何度も何度も飽きずに読んでくれる人。
できあがったどんな原稿も、心待ちにしていたかのようにいそいそと読んでくれる人。
世に出なかった原稿も「これを読めるのが編集者の特権なんだよ」と喜んで読んでくれる人。
まだ一文字も書いていない原稿を、まだこの世に誕生していない原稿すらも、心のなかで慈しみながら読んでくれる人。

「そうかあ」
と、柳下さんは言った。


一所懸命に書いたものだって、読まれるとは限らない。待たれているとは限らない。悲しいけれど、それは事実だ。
昔のわたしがそれでもいいと思っていたのは、「自分が読みたいもの」を書いていたからだ。
自分のなかの読者、自分のなかの「もうひとりのわたし」が喜べばそれでいい。
少なくとも、ひとりは喜ぶじゃないか、この原稿で。

でもそれは強がりだった。
やはりわたしは、誰かと繋がりたかった。
書くことのさきにはやはり、読まれることがあってほしいのだ。
そう願って書いているのだ。


だから、「もうひとりのわたし」以外に、わたしの書くものを待つ人がいてくれることが本当に本当に嬉しい。

わたしの幸運は、ここまで貪欲に読んでくれる人が目の前に現れたことにある。
それは「編集者」と呼ばれる人だった。


柳下さんは、
「僕はただ、いい作品を読み続けたいだけなんだ」
と言った。

それが編集者だ、とわたしは思っている。