夏休みの終わる二日前

おとといアイロンをかけていて、ふと思った。
「このアイロンは、なんのためにかけているんだろう?」

シャツは青と白のストライプだった。
わたしはそれに紺のスカートを合わせ、グレーのカーディガンを羽織ることにした。
アイロンをあてた、まだすこし熱の残るシャツを着て、鏡の前に立つ。

「ああ、わかった」とわたしは思った。
この日は午前中に税理士さんが来る予定だった。だけど別に、アイロンをかけてまでシャツを着る必要もない。
それなのにわたしがこの格好をしたのは、事務処理が苦手な自分を楽しませようと、事務処理が得意そうなコスプレをしていたのだ。
「アイロンは、自分の気持ち良さのためにかけていたんだな」
と思った。
そのとき、なんだかいろいろわかりそうな気がした。


柳下さんと会って間もないとき、
「夏休みの終わる二日前みたいな人だな」
と思ったことがある。

小学4年生の、8月29日。
わたしはあともう少しで夏休みが終わってしまうなと思い、そのときからようやく、本当の意味で遊び始めた。
もちろん、それまでにも遊んでいたのである。だけどそれは本当には遊んでいなかった。時間をつぶしていた、というのと同じかもしれない。近所の公園に出かけ、友達の家で漫画を読み、ゲームをし、ぶらぶらし、あとは寝るまで本を読んだり、テレビを見る。
「だけどわたしがしたかったことって本当にそれだったのかな?」
わたしは8月29日、初めて自分がしたいことを考え、それを実行にうつした。

とは言っても、ささやかなことだ。仲の良い友達を誘い、学校で開放されているプールへ行ったのだ。
夏休み中、学校のプールに行くのは初めてだった。いつだって行けたはずなのに、泳げないから行かなかった。なんとなく、泳げない自分は行ってはだめだと思っていたのだ。
でもそのとき、
「泳げないけど、水に入りたい」
と自分が思っていたことに気づいた。
泳げなくても、水に入ってみよう。
それでプールへ行ってみた。泳げないけど、水に触れたり、潜ってみたりした。それがすごく、楽しかったのだ。

「遊ぶってこういうことだったんだ、もっと遊べばよかったんだ」
と、帰り道を歩きながら思った。それはわたしにとって、ものすごい発見だった。
もっと自分の声を聞いていい。もっと自分の気持ち良さのために動いていい。
でもそれがわかったのは、夏休みの終わる2日前だった。

あのとき、きっと人生もこういう終わり方をするんだろうと、幼心に思ったことを覚えている。死ぬ前にこう思うのかもしれない。
「遊ぶってこういうことだったんだ、もっと遊べばよかったんだ」



柳下さんと出会ったとき、そのことを思い出した。
彼は「遊ぶ」のが本当にうまいと思う。

彼から教えてもらったことはたくさんあるけれど、中でも
「遊ぶってこういうことだったんだ」
というのは、大きい。

たとえばこのあいだ、『言志の学校』というフリーペーパーやZINEをつくるための学校でわたしたちが登壇する日、彼はバナナの描かれたアロハシャツに海パン(!)を履いていた。もちろん足元はビーチサンダル。季節はもう、10月半ばにさしかかろうというのに。

授業の前、わたしたちはコメダ珈琲にいた。
注文をとりにきた店員さんが、あまりにも夏らしい格好をしていた柳下さんに我慢できなくなったらしく、
「すごく夏らしい格好をしていますね」
と話しかけてきた。
すると柳下さんはこう答えた。
「『平成最後の夏はまだまだ終わらせないぜ!』という気持ちで来ました」

それを見ながら、「ああ、遊んでいる」と思う。
「遊び」とはつまり、この世界で楽しんでやろう、この世界で気持ちよくなってやろうという気概なのだ。そこに他人の目線はない。自分が楽しいから、気持ちいいから、そうしている。
そしてその主語が「わたし」から「わたしたち」になったとき、遊びは伝染し広まっていく。

おととい、鏡に映る事務作業の得意そうな自分を見ながら、遊びが伝染したなと思って、すこし笑った。



わたしは遊び上手な人を見るといつも思うことがある。
それは、
「この人は、世界にたいしてなれなれしい」
ということだ。

なれなれしい、というとすこし棘があるようだけど、そうではない。
親しんでいる、近しい、心を開いている、という感じ。
だって、
「平成最後の夏はまだまだ終わらせないぜ」
だなんて、世界に心を開いていないでどうして言えるだろう?


そして「遊び」とは、「編集」を構成する大事な一要素だとも思うのだ。
逆に言うと、「遊び」自体が「編集」であるとも言えるかもしれない。

「遊び」とは、目の前にあるものを使ってより楽しく、より気持ちよくなることである。そのためには知識も必要だろう、体力もいるだろう、遠くへ行くことも必要かもしれないし、仲間だって要るかもしれない。つまり、楽しく気持ちよくなるために、手間をかけること。それを総じて「遊び」というのではないか。
つまり本当の意味で「遊ぶ」には、それ相応の手間が必要なのである。

だから、そのためには絶対的な「自信」もいる。
自分は楽しんでもいい、気持ちよくなってもいい、そのための手間をかけるべき存在であること。そして、世界になれなれしくできる存在であること。その「自信」がなければ、きっと人は遊ぶことができない。
その「自信」は「自己肯定感」だろうか?


保育園などで遊んでいる子供たちを見ていると、小さい彼らが世界とまだ癒着しているように感じる。「遊ぶ」ことをしている彼らは世界を受け入れ、世界に受け入れられている。そしてそのことをちっとも疑っていない。
そういう光景を見ていると、
わたしはいつから「遊ぶ」ことができなくなったんだろう?
と思う。


柳下さんは編集に必要なのは「愛と美意識」だと言った。
そしてそのどちらもが、「絶対価値」だと。

誰かに良く思われたいから、誰かに求められているから、お金になるから、ふさわしいから……そういった外的要因が第一にある限り、その行動は遊びではない。
第一の動機が内的要因、つまり「絶対価値」である「愛と美意識」ならば、それはきっと「遊び」になる。

夏休みの終わる二日前、わたしはまさにあのとき、自分の「夏休み」を「編集」していた。

世界を受け入れ、世界に受け入れられていること。
柳下さんはきっとそれを疑っていないんだろうな、と思う。

だから参加できる。遊ぶことができる。「集めて編む」ことができる。
世界が自分のものだと思わないで、どうしてそれができるだろう?




「編集」「愛と美意識」「遊び」についてはまだまだ考えるべきことがある。
ちょっとまだ全部を整理して言語化できないけれど、ひとつひとつ言語化していきたい。

また書いてみよう。