美意識と、身体性と、プールの話

「美意識ってどうしたら身につくんでしょう」

このあいだ、フリーペーパーを作る学校『言志の学校』に柳下さんとふたりで登壇したときのこと、授業後にそう言って相談をしにきた男性がいた。

柳下さんはその日、「編集」がテーマの授業でこんなことを言ったのだ。
「編集に必要なのは、愛と美意識です」

それを聞いた男性は、
「だけどぼくは、自分に美意識がないのがコンプレックスなんです」
と言ったのだった。

「美意識がないってどういうことですか?」
柳下さんは彼に聞いた。すると彼は恥ずかしそうに笑い、
「ぼくは、ケチをつけるのは得意なんです」
と言った。
「これはいまいちだとか、これはおもしろくないとか、ケチをつけることはできるんですよ。だけど、そればかりになってしまって、これは美しいとか、かっこいいとか、言えなくなってしまっているんです」

「それは、言えなくなっているだけですか? それとも、美しいとかかっこいいとか、感じられなくなっているんですか?」
今度はわたしが尋ねる。すると彼は「うーん」と考え込んだ。
「そうかもしれません。自分は何を美しいと思うのか、わからなくなっているのかもしれない」

そして、
「自分には『センス』というものがないのかもしれないなって、思うんです」
と言った。
「昔から、『センス』のあるひとにすごい憧れがありました。自分もそうなれるようにいろいろ努力してみたんですけど、『センス』が身についているとは思えなくて」

とは言え、彼は身なりも持ち物もおしゃれだし、『センス』があるように見える。おそらく、わたし以外のひとからもそのように見られているはずだ。だから彼がなぜ悩んでいるのか、わたしにはちょっとよくわからなかった。

柳下さんは「なるほど」と言い、それから、
「そもそも『美意識』と『センス』って同じものなんですかね?」
と考え込んだ。

「あのひとは美意識がある、あのひとはセンスがある……」
ためしにわたしは例文をつぶやいてみたが、確かにニュアンスが違う気がする。
「ちがうんですかねえ」
相談者の彼は、首をかしげた。

すると柳下さんは、
「多分、誰にモテるかって話なんですよ」
と、顔をあげて言った。

「誰にモテるか?」
「そう。『センスがある』って、相対評価ですよね。ひとから見たときの、そのひとの評価。つまりひとからモテるかどうか」

相談に来た彼は、「なるほど」と神妙にうなずきながら聞いている。

「それに対して『美意識がある』って絶対評価なんですよ。誰に何を言われようが、自分はこれを美しいと思うんだっていう、それを信じるのが『美意識』だから」

柳下さんは続ける。

「だから、『美意識』っていうのは、自分が自分にモテているかどうか、なんじゃないでしょうか」
「自分にモテる?」

柳下さんは陽気な笑顔を見せ、
「ぼくはぼく自身にすっごくモテてますよ」
と言った。



このあいだ、とあるデザイナーさんにインタビューしたときに、彼は本を読むときには、文字よりも絵や写真のほうがすっと入ってくる、というようなことを言っていた。
「絵とか写真のほうが、ひと目見て、あっなんか気持ち良い!ってわかるじゃないですか」
と言う。
それを聞き、内心わたしは驚いていた。そうか、そんな見方があるのかと。

わたしは文章を書く仕事をしているからか、絵や写真よりも文字のほうが親しみやすい。絵や写真は、一度に入ってくる情報量が多くて、なんだか取りこぼしてしまっているような、悪いことをしてしまっているような、焦りに似た感覚になるのだ。

だけど彼は、「なんか気持ちいい」と言って、その絵や写真から受ける印象を享受していた。
「それでいいんだ」と、そのときわたしは目からうろこが落ちる思いだった。
「絵とか写真を見て、気持ち良くなっていいんだ」と。

わたしは、頭でわからなくてはいけない、と思い込んでいたのかもしれない。なんらかの条件をクリアしていないと、気持ち良さを享受してはいけない、というふうに。
でもきれいな空や海を見たときに、「ああ、気持ちいいな」とふとつぶやくように、絵も写真も、ひいては服も音楽も料理も雑貨も、シンプルに見ていいのかもしれないなと思った。
多分それが「美しい」と思ったときの、素直で基本的な身体反応なのだろうな、と。
そしてそれがなくなったら、単純に「美しい」と思えなくなってしまうよな、と。

柳下さんはわたしに、
「身体性って大事だよね。だけど作家は、身体性を置き去りにしがちだよね」
とよく言う。本当に、口癖みたいに。

「ねえ、土門さん、プールで泳いだりしてみたらどう?」
それである日そんなことを提案されて、ジムに入会した。夏に泳ぎ始めて以来3ヶ月、週に1度のペースで通い続けている。

泳ぎはじめてわかったことがあって、それは「泳がないとわからないことがある」ということだ。
それも、ずいぶん長いこと泳がないとわからない。その「泳がないとわからないこと」は、そろそろ帰ろうかな、と思って泳いだ最後の25メートルでわかったりする。

「泳がないとわからないこと」を簡単に言語化すると、「すごく気持ちいい」ってことなのだけど、この「すごく気持ちいい」にたどり着くには、自分からいろいろなものをそぎ落としていかないといけないんだなということに最近気がついた。

「腕はこうして脚はこうしないといけない」などとあれこれ理屈を考えていたり、「プールから帰ったらあれをしないと」と先のことを考えていたり、他のひとの目やタイムを気にしていたりすると、それになかなかたどり着けない。

だけど、ある時点でそれらすべて忘れるときがある。そのときわたしは過去も未来も、他人もタイムも見ていなくて、「今」しか感じていない。
要するに、なにも考えていないのだ。

その瞬間、水中に発生する泡のひとつひとつがくっきりと見えるようになる。
水が柔らかく強く自分のからだを包んでいるのがわかる。
自分のからだごと、水をかきわけて前に進んでいるのがわかる。

いつも「これだ、この感覚だ!」と、初めてわかったような気持ちになり、嬉しくなってプールを上がる。それは、泳いでいないときには決してわからない。泳いでいる瞬間にしか再現されず、思い出そうとしてもなかなか思い出せない。

それで、「今日もあの感覚がわかってよかった」と思うのだ。
自分が自分とぴったり合っている感覚、自分がそれを喜んでいる感覚。
それって「自分を愛する」ってことと近いのかもしれない。


相談者の男性と柳下さんのやりとりを聞きながら、なんとなくそのことを思い出していた。

「美意識ってどうしたら身につくんでしょう」

その相談の答えは雑談にまぎれてはっきりとは話されなかったけれど、「自分にモテる」、つまり「自分を愛する」ということなのかなと思った。
他人の目、評価、効率性を計算に入れたものではなく、ただ自分の「気持ち良さ」に忠実であること。自分の「気持ち良さ」を受け入れ、信じること。自分が自分とぴったり合うこと。

その先にたぶん「美意識」はあって、それは最終的には頭ではなく、からだで獲得するものなのかもしれいない。


授業が終わったあとの帰り道に、
「『美意識』が絶対評価って、なんかわかる気がするな」
と柳下さんに話した。

「他人の評価よりも、自分の気持ち良さを信じるってことでしょう? だから、柳下さんはわたしにプールをすすめたのかなって思ってた」

すると柳下さんは「あはは」と笑って、
「身体性は、本当に大切だよね」
と言った。

「プールはとても楽しいよ」
そう言うと柳下さんは「そうか!」と意外なほど喜んだ。
そして、
「気に入ってもらえてよかったよ」
と言って、また笑った。