柳下さんの書いた『柳下さん死なないで』の話

前回の『柳下さん死なないで』を読んだ柳下さんからクレームが来た。
「僕は、モテるようなことを書いてほしい、と頼んだはずだけど」
と言うのだ。

「うん。だから、柳下さんがモテるようなことを書いたじゃない」
わたしがそう答えると、柳下さんは「ええ!?」とひどく驚いた様子で
「僕が君に何かリクエストをすると、それはブーメランのように僕を傷つける」
とまで言うので、こちらこそ驚いてしまった。完全にすれちがいである。

おそらくわたしと柳下さんの間で「対象がモテる文章」の定義が違うのだろうな、と思っていたら、翌日の午後、こんなメッセージが来た。

「参考までに、僕と土門さんの日常のひと幕を書こうと思う。『柳下さん死なないで』はこのような洒脱なコンテンツであってほしい。土門さんがなぜ、このような文章を書かないかが、僕には不思議でならない」

それを読んだわたしはiPhoneに向かって「えっ」と声を出してしまった。
スクロールすると長文が続いていて、そこには柳下さん自身が書いた『柳下さん死なないで』が書かれていた。


……


読み終えてから、これはいったい何だろう、と思った。
しばらくの間、状況がうまく呑み込めなかった。

それで、もう一度読み返してみた。
うん、やっぱり、どうやら、柳下さんはわたしの「参考までに」自ら『柳下さん死なないで』を書きあげたようだった。
起承転結がしっかりしており、しかも、ちゃんと「わたし」の視点で書いてある。こんな「日常のひと幕」は身に覚えがないけれど、すごく上手な文章で、「柳下さんってやっぱり文章うまいなあ」とうなってしまった。


それと同時に、「柳下さんってやっぱり変な人だなあ」と思う。
世の中にはこんなことをする人がいるんだな、と。
だけど、そのときふと、柳下さんがいつかこんなことを言っていたことを思い出した。

「編集が作家に自分の読みたいものを書かせようとしてしまう、ということは残念ながらある。だけど、そんなことをするくらいなら、編集が自分で書けばいいんだ。0から1を生み出すのがどんなに大変かを思い知れば良い」

その言葉どおり、柳下さんは自分で書いたのだ。
自分の読みたい『柳下さん死なないで』を。

わたしは、さらにもう一度彼の文章を読み返す。
柳下さんがこういうことをする人だからこそ、自分はこの『柳下さん死なないで』を書き続けることができているのかもしれないなと思った。

月に3回、自分のことが誰かに書かれ、それがWeb上にアップされる。
そんなことに堪えられる人がこの世にどれくらいいるだろう。
世に出ることが前提で話すインタビューとはちがって、自分の日常が切り取られ、筆者のフィルタを通され、自分にはコントロールできない状態で世の中に公開される。自分でやっていて思うが、そんなことを仮に自分がされたら、もしかしたら発狂するかもしれない。いや、そうなる前に、少なくともこのブログをやめてほしいと言うだろう。

でも、柳下さんは「やめてほしい」ということを一切言わない。
むしろわたしが「あのブログ、もう書くのやめようか」と言うと、
「いや、やめなくていい」
とキッパリと言う。

「僕はあのブログに非常に複雑な気持ちを持っているけれど、前提として君に書かれることは本当に光栄だと思っている。それに、単純にひとつでも多く土門さんの文章を読みたいからね」

そう言われたら、やめる理由はない。
だからわたしはいつも、「じゃあ、やめない」と言う。やめないで、好きに書く。なぜなら柳下さんは、こう書いてほしいと思ったらそれを我慢せずにわたしに言い、かつ、自分で書く人だから。わたしが彼の気持ちを推し量ったり、要望に応える必要もなくしてくれているから。

また、書きやすくされてしまったなと思う。
非常に複雑な気持ちを持ちながらも、柳下さんはわたしに書かせようとしてくれる。
彼がいつも言うように、
「作家が書きたいものを書かせること」
それが編集の仕事だから。



改めて、わたしはこの『柳下さん死なないで』を自分のためだけに書いているなと思った。
柳下さんを良いように書こうとか、おもしろおかしく書こうとか、そうしたいのは山々なのだが、期待に応えようとすると、途端に手が動かなくなってしまう。

柳下さんと話していると、いろいろな発見や驚きがある。
あまりにわたしと違いすぎて、真反対の人間すぎて、おもしろくってしかたないのだ。
わたしの書くモチベーションは、そこにしかない。

自分のために書いているから、柳下さんの期待にはずっと応えられないのだと思うし、読者の方にとっておもしろいのかどうかもずっとわからない。
これまでもずっとわからなかったけれど、今回の記事だってもちろんわかっていない。

でも、柳下さんの書いた『柳下さん死なないで』を読んで、多分それでいいのだろうなと思った。
多分、好きに書けということなんだと思う。
「僕は不満があったら自分で書くから、君は好きに書け」と。

だから、柳下さんの書いた『柳下さん死なないで』を載せておく。
この文章で柳下さんがモテるのかどうかは疑問だけれど、彼の行動は書き手に対してどこまでもフェアだ。

そんなふうに、わたしはこの文章を解釈している。

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「仔猫と薔薇と柳下さん」の話

あなたがもしも柳下さんに会うのなら、繋がらないトランジットのせいで深夜に沈む空港の旅行者よろしく、空気で膨らませた移動用の枕を首に巻いていくべきだ。(それはしかたのないことだし、不可抗力だけれども、あなたが)柳下さんの圧倒的な魅力に当てられて18世紀の宮廷婦人のように気を失ったとしても、枕のクッションがあなたの頭を守ってくれるから。

これはある日、柳下さんと待ち合わせをしたときのことだ。御所のイチョウもゆっくりと鮮やかになっていく、秋の始まりの小雨の朝。わたしは、待ち合わせの場所である、河原町三条の喫茶店に向かっていた。
秋の京都は観光客も多くて、河原町通りはとても混んでいる。
茶店のテーブル席が空いているといいけれども、なんて、信号待ちで交差点に佇むわたしは、そんなことを考えていた。

そのとき!
ラクションとブレーキの音が世界を切り裂いた!
猛スピードで、音を見れば、間に合わない、横断歩道の、トラックが、仔猫をよけきれずに、世界の一部を破壊しようとしている!

静止する時間と景色の中で、柳下さんだけが動いていた。
柳下さんは、宇宙服を脱ぎ捨てた月面のダンサーさながら、ステップ軽やかに道に躍り出て、助け出した仔猫を胸に抱き、真っ白なスーツが汚れるのも厭わず、登場と同じくらいの爽やかさで舞台から去っていった。

あまりにも鮮やかで、まるで何もなかったようだったけれど、これは現実だ。
なぜなら、仔猫のいた場所には、いつも柳下さんの胸元に刺さっている赤い薔薇が一輪、名残のように落ちていたから。

やはり今日も、枕を首に巻いていて正解だった、と急速に近づいてくる地面を見ながら、わたしは思った。

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