「正気はひとつしかないけど、狂気はいろんな形があるからね」

先日、Instagramである男性のミュージシャンをフォローした。

ファンというわけでもないし、それどころか、彼の作品を聴いたこともない。
なんとなく引っかかるところがあって、フォローした。そして、一方的に彼の投稿を目にする日々が続き、少しずつ彼のことを知っていった。

彼はバンドを組んでおり、ソロ名義でDJもしているらしい。日本だけではなく海外でも活動している。彼のあげる写真やコメントから「自分が音楽をつくる意味」について常に意識的であろうとする姿勢が感じられた。多分わたしよりも少し若いくらいで、おそらく20代後半。性格ははっきりしていて、言葉遣いは少しきつめ。でも全然悪気はなくて、それが魅力のひとつになっている。
自分の芯のようなものはしっかりあるけれど閉じているわけではなくむしろオープンで、対話やディスカッションを好む人らしい。この日も、Instagramのストーリーズ上でリスナーの方々と対話を行う、ということをしていた。

彼はリスナーの方に、
「リスナーのみなさんがこれからの僕たちに求めるものは何ですか?」
と問いかけていた。
「別にその通りにしようと思っているわけでもないし、迷っているわけでもないです。ただ、みんなが僕らに何を期待しているのか、聞いてみたいだけです」

ストーリーズは24時間で消えるので、そのときの言葉を正確に引用することはできないけれど、わたしの記憶が確かであれば、彼はこんな問いをリスナーに投げかけていた。

そこに、どんどんリスナーからコメントが寄せられる。
「もっといろんな場所でライブしてほしい」「ライブの配信をやってほしい」「今のままでいてほしい」……。

だけど、その中でもっとも多かったのはこういう意見だった。
「私たちの意見など聞かず、あなたたちの好きにやってほしい。私はそれが聴きたい」



この『柳下さん死なないで』は、毎月「4」のつく日に更新されている。
これまでは月3回わたしがひとりで書き綴っていたが、先月から「4日」だけ、柳下さんが依頼した方に寄稿していただくことになった。

今月(つまり前回)は、小倉ヒラクさんの原稿が寄せられた。
蓋を開けてみればなんと短編小説で、一読してすぐ、
「すごいものが来た」
と思った。その小説は、常軌を逸していた。
「狂ってるね」
と、わたしはすぐに柳下さんにメッセージした。もちろん最大の賛辞だ。ヒラクさんは、狂っている。
柳下さんは、
「そうだね。すごくユニークだ。こういう文章はとてもいい」
と言った。

すっかり感動したわたしが「すごいなあ」「登場人物として書いてもらえてうれしいなあ」と喜んでいると、
「君も、狂気を忘れるなよ」
と柳下さんが言った。

「正気はひとつしかないけど、狂気はいろんな形があるからね」



以前柳下さんに、
「君は、人の文章に嫉妬したことってある?」
と聞かれたことがある。
わたしは少し考え込んでから、「わたしは嫉妬深い女だけど」と前置きし、それから
「でも、人の文章に嫉妬したことはないかも」
と答えた。

「すばらしい文章を読むと、もっと読みたくならない? だからその人には、もっともっと書いてほしいって思う。嫉妬よりも、そういう書き手に出会えた喜びのほうが大きい」

そう言うと柳下さんは「そうか」と言い、
「土門さん、それは君の美徳だよ」
と言った。



「すばらしい文章」って何だろうと考えたときに、いろいろ挙げることができる。

たとえば、目の付け所や切り口が斬新であるとか。取材が綿密に行われているとか。言葉遣いがとにかく美しいであるとか。構成がダイナミックかつ緻密な計算なもとになされていて最後まで目を離させないとか。
「こんな文章、逆立ちしたって書けない」と打ちのめされることは、もちろん、これまで何度だってあった。

だけど、わたしはそれに嫉妬しない。なぜかというと、すべての「すばらしい文章」には共通していることがあって、それは「自由」であるということだからだ。
逆に言えば、「自由」を感じない文章は、どれだけ構成が良くたって、取材が細かくされていたって、わたしにとっては「すばらしい文章」ではありえない。

「すばらしい文章」は、自由であるがゆえに、読んでいるこちらまで自由にしてくれる感じがする。
だからわたしは、嫉妬を感じない。
自由であるということは、比較したり優劣をつけたりすることから、解放されているということだから。相対的ではなく、絶対的なことだから。「すばらしい文章」は、嫉妬や劣等感からも読み手を解放させてくれる。



ラクさんの小説を読んだとき、わたしは嬉しかった。
その作品がおもしろかったのももちろんあるけど、前提として自由だったからだ。
こちらの期待やこれまでの慣習などといった、ガイドラインという名のストッパーを完全無視して、ヒラクさんはのびのびとヒラクワールドを作っていた。

わたしは、そのようなストッパーを外された作品を見るのが好きだ。
そういう作品には、人の目や声など届かない場所で純粋培養された、見たことのない生き物みたいなものが息づいている気がする。
その「生き物」を見ると、自分の中の「生き物」もうずうずと動き出すのを感じる。そして自分まで、ストッパーを外せるような気持ちになってくる。
多分わたしは、その「ストッパーを外す」行為を「自由」と呼んでいるし、「生き物」のことを「狂気」と呼んでいる。
そしてそれがある作品のことを、「芸術」と呼んでいる。



柳下さんは言った。
「正気はひとつしかないけど、狂気はいろんな形があるからね」
そして、「狂うって、自分をまわりに合わせないってことと、ちょっと同じだよね」と続けた。

「本当にそうだね」
とわたしはメッセンジャーで返信する。
「ヒラクさんの文章読んで、狂うのを怖がっててはいけないなと思ったよ」
そう言うと柳下さんは「そうだよ。土門蘭でいれば書けるって何度も言ってるじゃん」と返した。呆れたように。

「君ははじめて聞いたかもしれないけどね。僕は2年前から言ってるぜ?」
わたしはブラウザの前で、とほほ、と思う。

本当にその通りだ。
「代替不可能な土門蘭として文章を書くこと」
この2年でわたしに求められていたのは、これしかない。
自分の中だけにしかいない「生き物」を、自由に遊ばせること。
そしてそれを常に求めてくれているのは、このブログの主人公でもある柳下さんなのだ。

「でも、まあいいんだ。何度でも言うよ」

ありがとう、とわたしは言った。



後日、冒頭のInstragramで知った彼のバンドの作品を聴いた。
シンセポップというジャンルらしいが、普段こういう音楽を聴かないので、正直ちょっとよくわからなかった。よくわからなかったけれど、かっこいいような気がして、ときどき聴いている。

「私たちの意見など聞かず、あなたたちの好きにやってほしい。私はそれが聴きたい」

そう言ってくれる人がいてよかったね。正気はひとつしかないけど、狂気はいろんな形があるから、わたしたちはこれからも作品をつくっていけるよね。

一緒にがんばろうぜ。

そんなことを思いながら、彼のつくる作品を時折聴いている。一方的な、そしておかしな友情だけど、こういうのもありだなと思いながら。