柳下さんと暮らす。

当時「拙宅に書生が居りまして」と話すと、皆一様に驚いた。
それが愉快で、僕も大げさに吹いていたように思う。
平成から令和にうつる辺りの、
大阪から上京した國重裕太君(ちゅーたくん)との奇妙な同居生活が、
このような文章を生み出すことになるとは、
まったく人生というものは小説よりも実に奇なるもの。
二十代前半の青年期を僕は先輩という存在と触れてこないままだったので、
このような後輩との生活はとても興味深かった。
知見を惜しまずに公開する悦び。まるでバトンを渡すように。


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柳下さんと3ヶ月ほど同居した。
東京で家無しになりかけていた僕を快く迎え入れてくれた。
その間、神楽坂のワンルームで寝食を共にしながら仕事をしたり遊んだりした。

柳下さんのライフスタイルは予想どおりのパワフルだ。
日を跨いでからバーガーキングをキメ込みに行ったり
(定期的に)目をしばしばさせながら原稿と長時間格闘したり、
と思いきや、ゼルダの伝説を夜中までプレイしたり、一緒に映画を観たり、
とても楽しい3ヶ月だった。

その生活の中から
柳下さんを柳下さんたらしめるようなエピソードを少し挙げてみる。


【自由になろうと】
ホームレスやホスト、海外を放浪したりと波瀾万丈な人生を歩んできた柳下さん。
そのエピソードの数々は壮絶すぎて「ホントかよ。」って思う時がある。
記憶と摂取した物語が混同して
別の次元を構築しているのかなとたまに思うけど、恐らくすべてホントだろう。

柳下さんは地面があれば大体どこでも寝れる。
家に帰って寝るという行為は、
それまでプレイした内容をセーブポイントで保存する
RPGゲームのそれに近いと思う。
柳下さんは睡眠という行為がとんでもなくシームレスなので、
セーブの感覚があまり無いのだろう。
無いというかオートセーブしている。

睡眠という生理現象によってある程度生まれる、
帰る場所・日常のルーティンから意識的に遠のこうとしている。
ひょいひょいと身をこなしながら今日もどこかに現れ、
自分の知らない何かを探しに行くのだろう。

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【整頓すること】
柳下さんは片付けができない。
服はそこらへんに散らかっているし、
コップもシンクいっぱいになるまで洗わない。

柳下さんの家には本がたくさんある。
そしてどんどん増える。that’s混沌。
ある日、部屋に本棚を増やした。
僕はまず、漫画だけをまとめようと
部屋に散らばる漫画たちを棚に挿しはじめた。

そのとき「棚がつまんなくなる!」と柳下さん。
続けて、「1つの棚に対して色んな本があった方が見ていて楽しいじゃん?」と。
聞くと、僕が混沌だなと認識していたジャンルも判型も違う本の並びは、
買った順で並んでたらしい!(早く言ってよ!)
資料として引っ張り出した本を戻さずにずっと出しっぱなしにする柳下さんが悪い。

「昔の本屋は面陳(表紙が見えるように並べること)なんてされて無かった。良書に出会うため、背表紙がずらっと並ぶ棚を血眼で見ていたらしい。そんな本屋をいつかしたいね!」
予定調和的に検索できない部屋の本たちを眺めながら
少し前に柳下さんがそんなことを言っていたなと思い出した。

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【愛おしい空間】
ローカルの素敵なお店から、
深夜に2人で流れ着いた数々のナショナルチェーン飲食店など、
色んなところで柳下さんと食事をした。

食事を通して色んな場所に連れて行ってくれた。
その中で1番印象に残っているお店は
迷わず中目黒にあるとんかつ屋「とんき」だ。

味もさることながら、空間がとても良い。
暖簾をくぐると34人ほどが並べる大きなU字のカウンター席が
厨房を囲むように並んでいる。
構成が驚くほどシンプルでどの席からも厨房を見渡すことができる店内は、
さながら教会のような潔い空気感を纏っている。
使い込まれた無垢のカウンターは毎日の拭き掃除により
なんとも言えない手触りを提供している。
阿吽の呼吸で調理される様子をカウンターに座る全員が眺めている。
職人の手により生まれるそのうまいとんかつを食べるために
集まる図はさながら神に救いを求める聖人のようである。
そして最高に愛おしいのが、
その神聖な店内には「隙」が散りばめられていることだ。

照明のランプシェードがキレイに整列している。
と思いきやよく見ると歯抜けだったり、
大きなカウンター席を設けるために結果としてうまれた広い厨房は
器具を並べても床が余っていたり、
中央に掛けられた時計がバカみたいに大きい。
とんかつを待っている間にそんなことを考えていると、
だんだんそれが完璧に作り込まれた「意図的な隙」に見えてくる。
トイレの窓枠に突っ張っている角材すら
何かを雄弁に語りかけてきそうだった。
(タイルの垂れ防止なのだろけれども)

実際のところどこまでが恣意的なのかは分からない。
が、ここまで作り込まれたように思わせてくれる空間は一体何なんだろう。

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僕は設計の仕事をしている。
建物を設計するにあたり、複雑な条件をまとめる手法として計画学を使う。
求められる用途から必要な機能・行為を洗い出しそれに必要な諸面積を設定…そしてパズルを埋めるように…数学の証明問題を解くように…設計が進んでいく。

それは積み上げられたロジックのかたまりだ。
ある種の正しさを纏ってそこに存在することができる。
(たとえ危ういものだとしても)

設計はどこかのタイミングでゲームになる。
ルール化(合理化)を目的としたモジュールと規格の世界に突入する。
それは設計者にとても重要な作業であり、やりがいに満ちた仕事だろう。
でもその時、人間は置いてけぼりになってはいないだろうか?
ある都合によって生まれた空間に人間が当て込まれただけになっていないだろうか?
降っておりてきたフレームを巣として暮らしているそれは
本当に求めていた空間なんだろうかと思うことがある。

柳下さんと仕事をしているとついついゲームの快楽に向かってしまう未熟な僕を
「なんとなくこっちの方がよくない?」と問い正してくれる。
図面を描き進めていくうちに取りこぼした、
「名付け得ぬ質」みたいなものを取り戻してくれる。

ルール化はとても大事だ。
だけど、それがもたらしてくれる秩序だけでは退屈だ。
ここに書いたひょいといきなり現れる人や、一見ぐちゃぐちゃな本棚、あのとんかつ屋のトイレで突っ張ってた角材みたいに
ふと思い出す記憶はいつも断片だ。経験はぶつ切りになって保存される。
建築はそれを受け止める場所でしかなくて、いかにその強烈な経験が内在的なバイアスで引き起こるかを期待しながら待つことしかできない。

そういった日常に埋もれる、
そっと隠れた愛おしい瞬間をずっと探しながら生きていきたいし、
それが自分たちのつくった空間で巻き起こってくれれば、
これ程幸せなことは無いだろう。
それはささやかで在りつつも決定的に無くてはならないものだと思っている。

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