「誰がインタビュアーをインタビューするのか」問題

先日、慶應義塾大学SFCの清水先生からお声がけいただき、「オーラル・コミュニケーション」ゼミにて、講義をさせていただいた。

お題は「聴くことと書くこと」について。
わたしがこれまでどのようにこのふたつと向き合ってきたのかを話してほしいと、メールをいただいたのだ。

受講生のみなさんはそれぞれプロジェクトテーマを持っていて、これからインタビューを控えているという。せっかく呼んでくださったのだ。そんな彼らに、少しでも役立つことをお話できたらと思い、自分の「インタビュー法」なるものをせっせとまとめた。


柳下さんは「僕も行くよ!」と言った。
担当編集者として同行してくれるのだそうだ。
「忙しいと思うし、ひとりでも大丈夫だよ」
と答えると、「僕も聞きたいんだ」と言う。
「君のインタビューは横で見ていて本当におもしろいからね。あのインタビューがどんなふうに言語化されるのか、話を聴くのが楽しみだ」
それで当日、新横浜駅から慶應義塾大学まで車で送ってくれた。
「頭を使うだろうから、糖分とカフェインをとらないとね」
と、緊張しているわたしに、コーヒーとドーナツを渡してくれながら。


教室に入ると、わたしよりも柳下さんのほうにみんな注目した。
それもそうだろう。もじゃもじゃの頭、「ロボ」と書かれたTシャツにアロハシャツ、そして海パン。もちろん足元はビーチサンダル。
柳下さんは「ドレスコードを間違えたな」と言って、そそくさと教室の後ろに行き、ちんまりと座った。そして、ニコニコとわたしの講義が始まるのを待つのだった。


教壇に立ってまず、わたしはこう言った。
「先にお伝えしておくと、わたしはインタビューを体系だてて学んだことがないんです」

学生さんたちが目を丸くしてこっちを見ている。どきどきしながら言葉を続ける。

「わたしはインタビューを誰かにちゃんと教わったり、本を読んで勉強したことがありません。15年間、ずっと実践の繰り返しでやってきました。言うなれば独学で、非常に偏ったやり方なんだと思うのですが、わたしなりに大事にしていることをまとめてきたので、ご参考までに聞いていただけたらと思います」

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講義はなんとか終わり、次に質疑応答の時間を迎えた。
そのとき、こんな質問があった。

「土門さんはインタビューについて学んだことがないとおっしゃっていましたが、それなのにどうして、ご自分のインタビューを言語化して体系化することができるのでしょうか。私は自分のインタビューを客観視することができないんです。土門さんは、いつもインタビューが終わったあとに、反省会などをされているのですか?」

すごく意外な質問だったので、わたしは答えに詰まった。
どうして、言語化して体系化できるのか。
そんなこと、考えたこともなかった。

「……反省会は、していますね」

しばらく考えてから、そう答えた。

「えっと、柳下さんとしてます」

学生さんたちが一斉に柳下さんのほうを見る。柳下さんは突然名前を呼ばれて、目をぱちぱちさせた。

「柳下さんは、わたしのインタビューにいつもカメラマンとして同行してくれるんですよ。それで、インタビューが終わったあとにはお茶をしながら、『今日のインタビューは、自分ではどう思った?』とか『いつもとやり方が違ったけど、それはどうして?』とか聞いてくれるんです。そのやりとりで、インタビューの方法について言語化できていったのかもしれません」

そう答えると、質問をした学生さんは「なるほど」と言った。
とてもおもしろい質問だな、と思った。「自分のインタビューを客観視することができない」だなんて、ちゃんと自覚できているのがすごい。
これは、「誰がインタビュアーをインタビューするのか」問題だ。

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いつだったか、柳下さんがこんなことを言っていた。
「誰が編集者を編集するんだろうね」
それを聞いてわたしは「編集者の編集者?」と聞き返した。

「うん。誰が編集者を編集するのか問題。だって編集者こそ、いちばん編集されるべき人でしょう?」

なるほど、と思う。確かにそうかもしれない。
作品、装丁、校正、製本、流通、販売……客観に客観を重ねた部分を担う人だからこそ、さらにその人を客観する立ち位置の人がいるはずだ。なぜなら、「客観に客観を重ねた部分を担う人」がゆがんだ主観に溺れてしまったら、すべての客観がゆがんでしまうから。

「誰がカメラマンを撮影するのか」
「誰がデザイナーをデザインするのか」
「誰が経営者を経営するのか」

柳下さんは、よくその問題について考えているようだ。
わたしは彼がその問いを発するとき「誰なんだろうねえ」と言いながら、一緒に考えている。

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まさにこの質問は「土門さんというインタビュアーをインタビューするのは誰ですか?」ということだったのだろうなと思った。

インタビュアーであるわたしがインタビュイーを「おもしろい!」と興味深く見つめるように、そのわたしを「おもしろい!」と興味深く見つめる人物がいる。そして、「今日のインタビューはどうだった?」とインタビューする。それが、柳下さんだったのだ。

インタビュー中、カメラマンである柳下さんは、わたしの作るインタビュー空間をカメラに収めながら、インタビューの会話をじっと聞いている。
そしてインタビューが終わると必ず言うのだ。
「今日のインタビューも、とてもおもしろかった」

わたしは、自分のインタビューがおもしろいかどうかなんて考えてもみないので、「どうおもしろかった?」と尋ねる。

「今日のインタビューは、いつもと少しやり方を変えていたよね? 彼が言葉を探しているあいだ、決して助け舟となるような言葉を挟んだりしないで、じっと辛抱強く待っていた。僕がそわそわするくらいに。あれはなぜだったの?」

そう言われてやっと、確かに自分が「じっと待っていた」ということを思い出す。
それで「あれはね……」と話し始める。そうしてやっと、自分のなかでねらいがあったことに気づくのだ。

そのとき、客観のいちばん外側にいた自分自身が、ぐっとまた外に出る感じがする。
さっきまでの自分を、さらに客観的に見て言語化している自分。
あの繰り返しで、わたしは「わたしのインタビュー」を体系化してきたのだな、と思った。

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教室のいちばん後ろで、「ロボ」と描かれたTシャツを着た柳下さんが、ニコニコしながらこちらを見ている。
終わったら、講義がどうだったか聞いてみよう。

ああ、コーヒーとドーナツが食べたいな。