子曰、辞達而已矣。

※毎月4(死)のつく4日、14日、24日に更新されてきた本連載でしたが、著者の進行管理として「4日分」をしばらく休載させていただくこと、編集部として判断いたしました。悪しからずご了承くださいませ。しかし、土門蘭の希望もあり、異例ではありますが、4日を編集部で埋草することとなりました。今後も「柳下さん死なないで」に変わらずのご愛顧を賜りますよう、お願い申し上げます。編集部より


土門さんはすぐに僕の体調を心配します。
寝ていないんじゃないか、ごはんをきちんと食べているのか、飲みすぎてはいないか、エトセトラエトセトラ。挙句の果てに、本稿「柳下さん死なないで」を書き始めました。なんということだ。
彼女は僕が死ぬかもしれないって思ったみたいです。セラビ、そりゃいつかはね。
だから、土門さんは、この文章を書いておきたいのだと言いました。
うん、彼女は書くことで世界につながっている。

土門さんは小説をはじめとする文章を書く人で、僕は彼女の編集者です。
本来、僕は裏方ですから、表には出ません。名前すら出す必要がない。
しかし社会科見学的興味からか、土門さんは僕を観察して、媒介としてエッセイを書くようになりました。
そう、僕は単なる媒介です。
僕のことを書いているように見えて、その実、この連載は土門さんの興味について書いているのです。とても変わった視点です。まともじゃない。
僕のことを書いてもいいかと土門さんが僕に聞いたとき、「いいけれど、そんなにも書くことがあるのかな?」と思いました。僕はただ、毎日を過ごしているだけ。しかし驚くことに、この連載は1年も続きました。しかもまだ続いている。ワオ。

特定の身近の人間(つまり僕)について書き続けるという、この連載。
強い言葉を使いたくはないけれど、はっきり言って狂っていると思います。
よくもまあ、こんなにも書くことがあるなあ、と思っていたのですが、むしろ、土門さんの興味がフォーカスする部分がユニークなのだと考えるようになりました。僕が話したことや行動したことの、まさか、ここが切り取られるのか、といつも驚きます。
実際に彼女は、僕が書いてほしいところには興味を持たなくて、書いてほしくない部分ばかり書きます。ちぇ。

誰かの言葉を他者が書く、という部分だけ見れば論語にも似ていますね。
しかし『論語』は孔子の死後に編纂されたけれど、本稿はリアルタイムです。僕は生きてる。
偉い先生だって、存命中にこんなことされたら、さすがに、仁とか徳とか言ってられなくなると思うなあ。
ましてや凡夫の僕なれば、尚。

それでも、辞は達するのみ。
「辞は達するのみ」とは、論語の中の言葉です。子曰、辞達而已矣。
「辞」とは言葉のことで、通じるための言葉だし、通じてこその言葉です。
まったく孔子は、いいこと言う。

録音した自分の声を聞いたとき、なんだか自分の声に聞こえないように、土門さんが僕のことを書くと、なんだか僕のことじゃないみたいだと思います。いっそ悪意すら感じる(もちろん彼女に悪意などなく、むしろ愛情しかないはずだけれども、それでも)。本当の僕はハッピーな人間だけれど、土門さんが書く僕はなんだか不機嫌で怖い人みたい。やだなあ。そういうところも、録音された自分の声みたいだ。

インターネットが現実の中に別の現実を作ったから、友人・知人という身体性がアンナチュラルに拡張されてしまいました。僕に会ったことのない人が、第一印象よりも前に僕を知ることになるのです。

自分の目で見たことだけ信じることって、とても難しいです。
土門さんはストレートに、自分の目で見たことしか書かない。それはすごいことだと思う。
世界の境目にいて、彼岸と此岸を行き来するからこそ書けるものがあるのです。つまり誰かとの関係性で世界を見ないということです。だから土門さんが書く僕は、僕が知っている僕じゃない。

子曰、辞達而已矣。
「辞は達するのみ」という文言は解釈の余地が大きいのですが、僕は発することと受け取ることの差異を受け入れる、やさしくて強い言葉だと思っています。
どのように書かれても、書き手は書き手の書きたいように書く。
どのように読まれても、読み手は読み手の読みたいように読む。
それでいいんじゃないかな。

誤解の余地というわけでなく、自分と誰かが分かりあうために、言葉というコミュニケーションツールを使うならば、「辞は達するのみ」という前提があるのだと思うのです。
どのような形でも結局は伝わる。望むようにか望まざるようにか、それは分からないけれども、ただただ、伝わる。それは、残酷でしょうか。あるいは、福音でしょうか。

彼女は書くだけ、僕は読むだけ。
土門さんが書く「柳下さん死なないで」という文章を読んでいて、僕はそのように思うのです。