「自分会議室」と「自分現場」。あるいは「鳥の目」と「人の目」。

ついこのあいだ、飲み会でこんな会話を耳にした。すぐ隣にいるふたりは『闇金ウシジマくん』という、闇金業者の社長が主人公の漫画について話していた。

ひとりの男性は言う。「僕はあの漫画を読むと、自分はここまで落ちぶれていないなって安心するんです」
それに対して、もうひとりの男性はこう言った。「いや、ここまで落ちぶれていないって安心するのはどうなんだろう。僕はあの漫画を読むと、こういう人たちって意外と自分のすぐそばにいるんだろうなって思うから」

わたしはその話を横でひそかに聞きながら、ふたりの視点が微妙に異なっていることに興味を覚えた。前者の男性は、ウシジマくんに出てくる債務者を「自分」だと思い、後者の男性は「身近な他人」だと思っている。その違いがおもしろく、自分もいざ話題に入ろうとしたが、ちょうどおいしそうな中華料理が届き話題は霧散、叶わなかった。


かくいうわたしも『闇金ウシジマくん』のファンである。ときどき読み返しては、債務者の悲惨な末路に胸を痛め、真面目に生きていかねばと心を新たにしている。
わたしの場合は前者の男性の感覚に近い。ウシジマくんに「奴隷くん」と呼ばれている債務者には女性も多く描かれており、「もしかしたら自分もこうなるかもしれない」ということをよく思う。パチンコにはまる主婦、仲間はずれになるのがいやで無理してブランド物を買うOL、家出して帰るところのない女の子。彼女たちと自分の、一体どこが違うというのか。わたしは作品を読むことで、彼女たちの人生を「私の人生(仮)」と見なし追体験している。

そして読みながら、「ああ、分不相応なものに手を出してはいけないよ」とか「パチンコ屋に行く暇がないくらい仕事しようよ」とか、心の中でやいのやいの言っている。
その「やいのやいの」は、自分のリアルじゃないから言えるのだ。紙の上に描かれた「人生」を、安全な場所で見ているからこそ言える。
そしてその「やいのやいの」は、作品を読み終わったわたしの人生に反映される。分不相応なものを買わないよう、パチンコ屋にも行かないよう、真面目に生きようとする。それはいわゆる「教訓」というもののひとつなのだろう。


ということを柳下さんに話したら、彼は「『自分会議室』と『自分現場』だね」と言った。

「『事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ』っていう有名なセリフがあるよね。本当にその通り。現場で起きていることに会議室がとやかく言っても、そうは言ってもさ、ってときあるじゃない?」

確かにね、とわたしは答える。多分わたしは「自分会議室」の力が弱すぎるのだろう。すぐに「自分現場」で手一杯になり、理性を失って冷静な判断ができなくなってしまう。だから、作品を読んで追体験することで、「自分現場」のシミュレーションをしているのかもしれない。「自分現場」を俯瞰するトレーニングを重ねて、「自分会議室」の力を強めるために。柳下さんはそれを「自我の客観視だね」と言った。


柳下さんは、この「自我の客観視」に長けている人だと思う。「自分会議室」と「自分現場」がほぼ一体になっている感じがする。たとえるなら、現場に最高責任者がいる感じだ。そこで頭を動かすのも、体を動かすのも、全部柳下さん。会議室が脳にある状態で、現場に立っている。そんな感じ。

わたしに関して言えば、会議室と現場は完全に分かれている。会議室で考えたことを現場で行い、現場で行ったことを会議室で考える。だからよく現場でパニックに陥るし、会議室で反省ばっかりになったりする。現場と会議室を同時に動かしながら「自我を客観視する」ということがなかなかできない。


柳下さんがそれをできるのは、彼が校閲者であることが大きいように思う。
いつだったか彼はこんなことを言っていた。

「『この小説おもしれー!』って思いながら夢中で読んでいたら、校閲なんてできないでしょう? かと言って、文字だけを追って内容を理解しなければ、文脈を汲み取った校閲なんてできない」

そして、頭の上のほうを指さしこう言った。
「だからいつも、ここにもうひとつの目がある感じだよ」
わたしは柳下さんのもじゃもじゃの髪の毛の上にある、もう一対の目を想像する。

「『あ、今おもしろいって思っているな』って、自分を少し上から見ている。『鳥の目』みたいな感じだよ」

多分その「鳥の目」が、常に彼の頭の上をほわほわ飛んでいるんだろうなと思う。その「鳥の目」こそが、彼の「自分会議室」なのではないか。


わたしには「鳥の目」がない。この顔に存在している、一対の目しかない。すぐに眩み、すぐにかすれ、すぐに泳ぐ、不安定な「人の目」だ。

「わたしも『鳥の目』が欲しいな」と言ったら、柳下さんに「君には必要ないよ」と言われた。
校閲者と小説家では使う目が違うんだから、君はそのままでいい。客観視できないから、小説にしているんだろう?」

それを聞き、じゃあわたしはこの「人の目」でやっていくしかないのだなと思った。すぐに眩みかすれ泳ぐこの「人の目」を、ひたすら磨き続けていくしかない。


そう思うと、『闇金ウシジマくん』を読むことで、わたしは「自分会議室」の力を強められているんだろうか?とふと不安になった。もしかしたら、全然そんなことないのかもしれない。ただ『ウシジマくん』に出てくる彼女たちの目を内面化しているだけかもしれない。それはそれで、「人の目(現場)」が豊かになるということで、いいことなのかな。

そして冒頭のふたりのことを考える。
「僕はあの漫画を読むと、自分はここまで落ちぶれていないなって安心するんです」と言った男性は「自分現場」の強い人で、
「僕はあの漫画を読むと、こういう人たちって意外と自分のすぐそばにいるんだろうなって思うから」と言った男性は「自分会議室」の強い人なのかもしれない。



柳下さんはどんな気持ちで『闇金ウシジマくん』を読むんだろう?
今度聞いてみようと思う。