箸の持ち方が正しくない

柳下さんは食べ方がきれいだ。ナイフとフォークを華麗に使いこなして、すいすい野菜や肉を適当な大きさに切り、おいしそうに頬張る。

「食べ方がきれいだね」
台湾に出張に行ったときだったろうか、朝ごはんのバイキングを食べているときに思わずそう言った。わたしと同じナイフとフォークを使っているとは思えない。柳下さんのだけ異常に切れ味が良いのではないかしら?と思うくらい、ウインナーやらトマトやらグリーンリーフやらオムレツやらを、滑らかに切り取り口に運んでいく。
わたしが感嘆しながらそう言うと、柳下さんは目を丸くして「そうかな? ありがとう」と言った。


対して、わたしは食べることが苦手だ。
食べることは好きだけれど、その姿を誰かに見られるのがあまり得意じゃない。ナイフやフォークはもちろん、箸の使い方だって下手だし、見られていると思うと緊張してしまう。気にしすぎだとはわかっているのだけど、自然と食欲がなくなる。

お皿の上のパンをちぎりながら、そんなことを話した。
「そんなに気になるのなら、マナー教室にでも通ったらいいよね」
自分の言葉に自分で先回りしてそう言うと、柳下さんは、
「マナーなんて気にしなくていいよ。要はおいしいものをおいしく食べることができたらそれでいいんだから」
と言った。
そして「だけど、どうしてそんなふうに思うようになったの? 誰かに何か言われたことがあるの?」と聞いてきたのだった。


そう言われて思い出したのは、高校生のときのことだ。
母は地元でスナックをやっていて、わたしはよくそこに呼び出された。呼び出されるのは大抵お客さんがお寿司とかお好み焼きを買ってきてくれたときで、図書館で勉強をしていると、「晩御飯があるから来なさい」と電話がかかってくる。
ある夜もそんなふうに呼び出された。お寿司を買ってきてくれたというお客さんにお礼を言って、がらがらのお店の中、ビールを飲んでいる彼の前で箸を持った。
するとお客さんは「あんた、箸の持ち方がおかしなねえ」と言ったのだった。

わたしは昔から、箸の持ち方が正しくない。人差し指と中指で持つところを、中指と薬指で持っている。鉛筆も同じ持ち方で、通常なら中指にあるペンだこが、わたしの場合は薬指にある。
「そうなんです、癖で」と曖昧に笑いながら返事をすると、お客さんは「そんなら鉛筆もそうじゃろう」と言った。「直さんにゃいけんわ、みっともない」と。
それから、
「まあお母さんが韓国人じゃけんね。作法もよう教えられんのじゃろう」
と言って笑った。

そのとき、全身の毛が逆立ちそうになるほど腹が立った。母を見るとお客さんに愛想笑いをしながら、必死にわたしをなだめようと小さく首を振っている。「怒るな」と言うのだ。母はこんなことを言われることに、わたしよりもずっと慣れていた。

わたしはお箸を持ったまま、「頑張って直します」と言って笑った。
それからそのお客さんが買ってくれた特上のお寿司を食べながら、「一生この箸の持ち方は変えない」と誓った。鉛筆の持ち方だって絶対変えない。この持ち方のままおいしいものを食べて、良い文章を書いて、いつか立派な大人になって、この人を見返してやる。

そのとき感じたのは、教養というのは「何を知っているか」ではなく、「どう振る舞うか」だ、ということだった。だからわたしは意地になった。「知っている」だけの人に負けてなるものか、わたしは「振る舞」い続けるのだと。
ただ、あのときのお客さんの言葉は小さな棘のようになっていて、今でも自分の中に残っている。


そんなことを話すと、柳下さんは眉根を寄せて「ひどいことを言う人だな」と言った。「かわいそうに、ずっと傷ついていたんだね」
そう言われて、自分は傷ついていたんだな、と思った。確かにそうだ。わたしは自分のことよりも、母のことを馬鹿にされて傷ついていた。あのとき怒ってやればよかった。もう二度と来るなと言ってやればよかったのだ。
だけどわたしも母も、何も言わなかった。お寿司ごと一緒にその棘を呑み込んで笑った。こんなもの平気だという顔で、穏やかに振る舞うほうがえらいのだと思いながら。
柳下さんは眉根を寄せたまま、「だけどそのお客さんは、『知っている』人ですらないよね。韓国でもお箸の持ち方は一緒なはずなんだから。作法も教えられない、というのは間違っている」とぶつぶつ言った。


それから朝食を食べ終わると、柳下さんはコーヒーを脇にやってカメラを取り出した。そして液晶画面をわたしに見せて、
「ほら、これを見て」
と言った。

その写真は、わたしの手の写真だった。ペンを持って、自分の本を買ってくれる人のためにサインをしている。
「君の手はきれいだよ。特にペンを持っているときの手はとても美しい」

そうかな、と言うと、そうだよ、と言う。そう言われて見てみると、そうなのかもしれないな、と思った。

「君の手は、正しくフォークやナイフや箸を持つためにあるんじゃない。ペンを持って文章を書くためにあるんだ。君は僕の食べ方を褒めてくれたけれど、それと同じように僕は君の書き方を讃えるよ。だって僕は、君みたいに書くことができないもの」

なんだかそのとき、ああ、もしかしたら自分は間違っていなかったのかもしれないな、と思ったのだった。わたしは、自分の箸の持ち方を守ってきてよかったんだ。

写真に映るわたしの手は、やっぱり正しくない持ち方で、中指と薬指でペンを支えている。この手で、この持ち方で、わたしはずっと闘ってきたんだなと思った。誰も傷つけない、誰も憎まない、誰も貶めないやり方で、振る舞い続けたんだ。

「見返してやる」と思ったお客さんの顔を、今ではちっとも思い出せない。
かわりに目の前には、「ペンの持ち方が美しい」と言ってくれる人の顔がある。
そのことに気づいて、わたしはちょっとおかしかった。

多分心の棘も、もうすぐなくなるんだろうなと思う。
そしてこれからも、わたしはこの持ち方で生きていくんだろう。間違ったやり方で箸を持ち、間違ったやり方でペンを持ち、ものを食べたり、ものを書いていくんだろう。

「マナーなんて気にしなくていいよ。要はおいしいものをおいしく食べることができたらそれでいいんだから」

正しくないやり方でも、美しく振る舞えたらそれでいい。
わたしが欲しかったのはそういうものだったんだと、柳下さんと話していて気がついた。