だって女の子なんだから

先日、柳下さんにインタビューをした。
本文ではカットしてしまったのだけど、印象的だった言葉がある。
テープ起こしをそのまま載せてみよう。

「男とは喧嘩を恐れないでいる状態であることが、喧嘩をしないことにつながると思うんですね。「お前言いたいことがあるんだろ」って言える関係。言ってくれればこっちも言えるしね。
女の子は、ジェンダー的にアウトですけど、理屈が違うので、僕は喧嘩を徹底的に避けるんですよ。喧嘩する状況に持ってかないっていうのが大事で」

ジェンダー的にアウト」と彼は言っているけれど、わたしもまったくそう思う。
男と女はロジックが違う。だからきちんとした喧嘩ができない。わたしが「まったくもう!」と怒って、男の子が「すみません」で、おしまいだ。でもきっと、男の子は肩をすくめたり、頭を掻いたりしているんだろう。わたしが天を仰いだり、あーあとため息をついているように。

「女の子に喧嘩をふっかける男は最低だ」
と後日柳下さんは言った。
「男に喧嘩をふっかける女は?」と聞いたら「それはかわいいと思う」と言うので笑ってしまった。


男と女ではロジックが違う、というのは本当によく思うことで、だからわたしは哲学書や思想書なんかを読んでいるとなるほどなと納得するものの、「でも、男目線だ」と思うことがたまにある。そこには「女」がない。しかたがない、だって著者が男なんだもの。それに文句を言うつもりはなくて、単純に「男が書いたもの」だということだ。わたしは女なので、わたしが書くものは「女が書いたもの」になる。ただそれだけのことなのだけど、読書の際に意外にそれが抜け落ちていることが多いなと思う。

そう言うと、柳下さんは本当にその通りなんだと言った。
「男は頭で考えがちだけれど、女性は身体性に影響される部分が大きいから、より体全体で考えることができるんだと思うよ」

だから柳下さんは、哲学よりも物理学が好みなのだと言った。
物理学は目の前の物質に対して疑問を持ち、実験を繰り返し、理論づけていく学問だからだと。頭だけではなく、身体性に拡大された学問。

それを聞き、彼がわたしのことを
「君はこういうところがある」
というのも、物理学の一種なのかもしれないな、と思った。

彼はわたしのことを、「君は正しい『女の子』だ」とときどき言う。
「息子を遊びに連れていく場所のレパートリーが増えない」
と漏らすと、
「君はそれでいいんだよ。だって女の子なんだから」
と言う。デートの場所は男が考えるものだよと。彼は道を歩くとき必ず車道側を歩くし、重いものを持っていると代わりに持ってくれる。そして、女性がお手洗いに行く頻度とその長さには非常に寛容だ。
「だって、女の子には子宮があるでしょう。そのぶん、男よりも膀胱を圧迫されているんだから」
この行動は、モテようとか気に入られようとかそういうのではない。
物理学のように研究した結果、男は女の子といるときはそうする方が良し、と判断したのだろう。

わたしは「女の子なんだから」と許されるのが大好きだ。そして、「男の子なんだから」と許すのも結構好きだ。
物理学のように、目の前の自分とは異なる物質を、理解しようと努める心はやさしいと思う。これはもちろん性差別ではなく、単純に「異なることを認める」という行為であるから。

男と女は、そうやって許して、優しくしあうことでしか仲良くなれないのだろうな。