「小説家」呼称問題

柳下さんに「コンテンツを増やして更新しない癖は何とかしたほうがいいよ」と言われる。それは確かにそうだなあと思った。その癖はよくない。よくないなと思いながらもそのままにしていたら、さっそく柳下さんから連絡があった。
「〆切はすべてのクリエイティブの母であるから、ここにルールを設定します」
というわけでこのブログにも〆切が設定された。編集者はこのようにして、書かせるのだなと思う。


きょうは「小説家」という呼称について書こう。
編集として柳下さんがつき、わたしが小説を書き始めたときから、ふたりで誰かに会うと、彼は必ずわたしを「彼女は小説家なんです」と紹介した。

「小説家」と呼ばれて、わたしは動揺した。いちばんはじめなんかは、びっくりしててのひらがびりびりした。
なぜなら、わたしはまだ小説を書き上げていなくて、そんな自分は「小説家」ではないと思っていたからだ(いくつかこれまで書き上げたものはあったけれど、それはどれも評価をされず世に出ずに終わった)。

「小説家なんですか」と相手の方は驚いて、はじめにわたしの顔を、それからわたしの名刺に目をやる。土門蘭、知らないな、という声が聞こえるような気がして、わたしは身を縮こませた。

柳下さんはそんなわたしにおそらく気づいていただろうけど、それからも背筋を伸ばしはっきりした声で「彼女は小説家なんです」と紹介し続けた。
わたしは隣で「小説家」と呼ばれるたびに縮こまりながら、早く小説を書かないとなと思った。

今回マガザンで「特集:私小説ー宿に小説家が居る。ー」が始まって、わたしはそこに在廊しているのだけど、この特集が決まったとき「小説家」として紹介されてもいいのだろうかとやっぱりまた思った。

それで聞いた。
「私はまだ小説を書き終わっていないのに、小説家と言ってもいいのかな?」
そうしたら夜にメッセージが来た。

「君から「私はまだ小説を書いていないのに、小説家と言ってもいいのだろうか?」という言葉が出たのは4回目で、これはきちんと答えたほうがいいのではないだろうかと思ったので、ここで、さっきのこたつを挟んで飲み込んだ言葉を言います」

それを読んで、4回も聞いているのか、と思う。
わたしはどうやら本当に忘れっぽいらしい。

「編集者は自分の作家の悪口を言いません。
にわとりとたまごの話にも似ていて、どちらが先かは混ざるけれども、「悪口をいう必要がない、尊敬できる作家に担当がつく」とも言えます。
だから、悪口を言う時点で担当じゃなくなる。

「世界中の人間が作家とその作品について悪口を言っていても、自分だけはその作家の才能を信じることができる」と思った時に担当編集と言えるのだと思う」

ああ、じゃあ、編集者もそうなのかなあと思う。
作家がその編集者を信じることで、その人も編集者たりえる。
わたしが柳下さんを「編集者」だと呼び続けているのと同じで。

思い返せば、わたしが彼に編集者としてついてもらおうと思ったとき、彼が編集した本を一冊も読んだことがなかった。どれかも教えてもらわなかった。教えてもらう必要もないなと思った。
この人は編集者としての資質を持っていると、おこがましいけれど、小説をまだ書いていない小説家未満のわたしは思った。理由はたくさんあるけれど、いちばんは、
「君の小説が読みたい」
と、きっぱり言ってくれたことだ。それが本心だってことが、わたしにはわかった。


編集者の柳下さんは、小説家である土門蘭を信用している。
それはわかっているし、その信用が「彼女は小説家なんです」という言葉と態度として表されるにつれ、わたしを強化していっているような気がする。

だから、おそらくわたしはこう聞きたいのだろう。
「どうしてそんなにわたしの才能を信用できるの?」

きっと愚問なんだろうけれど、わたしは愚かなので今度会ったときに聞こうと思う。
もしかしたらすでに、その質問もしているのかもしれないけれど。
そのときはまたここに書こうと思う。

「担当の僕が「小説家」って言ってるんだから、君は涼しい顔してとにかく小説を書けばいいと思うよ!」

というわけで、今日も小説に向かう。小説家として。