自殺とあったかいお茶の話

柳下さんはこのブログに対して複雑な感情を抱いているようだ。
「更新しないんなら全部消してしまえ」
と何度も言っている。でもこのブログのアカウントのパスワードを知っているのはわたしだけなので、彼には消すことはできない。したがって、彼は更新を促す方を選んだということなんだろう。〆切を設定したあと、その〆切を守らなければ「東京タワーのてっぺんで爆死する」とまで言う。爆死されては困るので、今日もまた〆切を守るべくこうしてキーボードに向かっている。

自分が書かれるというのはどういう気持ちなのだろう?
わたしにもよくわからない。書かれたことがないからだ。だから無神経にずかずか書くことができる。取材もそうだ。取材するばかりでされたことがほとんどないから、無神経にずかずか質問ができる。大人になるとは、いろんな立場の人の気持ちがわかるようになるということなのかもしれない。


今日は自殺のことを書こう。
11月だったか、SNS上で自殺を望む発言をしていた子が複数人殺される事件があった。京都行きののぞみ新幹線のなか、壁に埋め込まれた細長い液晶に、そのニュースの文言が右から左に流れるのを見ながら、
「自殺したいって思ったことある?」
と、隣の席に座っていた柳下さんに聞いたら「ないなあ」と言われた。

「ないんだ」
「君はあるの?」
「あるよ」
「そうか、かわいそうに」
「柳下さんはどうしてないの?」

柳下さんは指で四角形だか五角形だかを描いて、
「これが僕の感情の形だとする」
と言った。
各点は、各感情だそうだ。怒りとか、喜びとか、悲しみとか。

「すごく悲しいことが起きたとするじゃない。そうしたらこの悲しみの部分はぐっと膨らむ。でもその分、喜びの部分も同じだけ膨らむんだってことを僕は知っているから、死なないんだ」

つまり感情の四角形だか五角形だかは、どんどん大きくなるということなのだろう。
それを聞いてわたしは「サガンみたいだね」と言う。サガンも同じようなことを言っていた、というと、柳下さんは知らなかったなと言った。柳下さんは博識だけど、知らないことは知らないとあっさり言う。

「でももしかしたら、『死にたい』っていうのは的確な言葉じゃない可能性もあるよね。『死にたい』っていうのは実は『休みたい』とか『優しくしてほしい』とかだったりするんじゃないだろうか。それをいちばん使いやすい『死にたい』という言葉で表現してしまって、それに引っ張られているんじゃないかなって、思う」

わたしがそう言うと、柳下さんは
「だから、本を読むんだ。言葉を知るために」
と言った。
「でも、自殺したくなる前に本を読んでおくべきだね。自殺したくなったら、本を読む余裕すらないだろうから」

「じゃあ、『死にたい』って言う子が目の前にいたらどうする?」
そう尋ねると柳下さんは
「とりあえずあったかいお茶淹れるから一緒に飲もうよ、って言うかな」
と言って、わたしは「それはいい答えだね」と言った。


大人になるとは、悲しみのぶんだけ喜びもあると知ることなのかもしれない。
それ以来死にたくなったときには、この日に柳下さんと話したことを思い出して、とりあえずあったかいお茶を淹れるようにしている。