編集者は「愛」と「美意識」でできている
柳下さんは、「編集者」とあまり名乗りたがらない。
なぜかというと、「『編集者』とは作品にたいして使われる肩書きだから」だという。
作品の横に立ち「僕はこの作品の編集者です」と言ったり、作家の横に立ち「僕はこの作家の担当編集者です」と言うのは問題ない。
作家も作品もないところで「僕は編集者です」と名乗ることに、どうも違和感があるのだという。
なんとなくわかるなあ、と思う。
それはきっと、編集者というものが媒体的存在だからだろう。
わかるなあ、と思うと同時に、こういう言葉への感度の高さって大事だなと思う。
言葉の感度が高いっていうのは、いろんな言葉を知っているとか、うまいことが言えるとかそういうことなのではなくて、ちゃんと自分のなかで「違和感」を覚えられるかどうかな気がする。
違和感とか、フィット感とか、気持ち良さとか、そういうこと。
この言葉がなんか使えないんだとか、間違ってはいないけどちょっと違うんだとか、そういうこと。
このあいだ、ある学校で、柳下さんが「編集」について話した。
「編集者と名乗ること」に違和感を覚える柳下さんなのだから、「編集を語ること」にも違和感を覚えるんじゃないかな、というのが、わたしの興味の対象だった。だからどういうふうに授業するんだろうなってすごく気になっていた。
当日、彼は『ハイフィデリティ』という映画を題材にしていた。
映画作品を編集して、「編集」について話したのだ。
その構図と行動がまさに「編集者」らしくて、わたしはその動的な「編集」の講義にすっかり嬉しくなってしまった。
さて、『ハイフィデリティ』という映画には、音楽好きの青年が3人出てくる。
彼らは何かというとテーマを設け、曲を集め、カセットテープを作り、人に聴かせるそうなのだが、その行動こそ「編集」であると柳下さんは言った。
これまでに聴いてきた膨大な量の曲のなかから、テーマにフィットするものを選び出し、並べ、編んでいく。そうしてできあがったものを、「ねえ、これ知ってる? すごくいい曲なんだよ」と言ってまわりに聴かせる。
「他人のリリックに自分の思いを託すのが、編集者です」
と、柳下さんは言った。
柳下さんは、わたしの文章を直したことがない。
「こういう言いまわしはどうだろう」と提案をしたり、「こういうのが読んでみたいな」というのはもちろん言う。だけど、その際にはその何倍もの長さの文章で理由について述べるし、たとえわたしがその提案を無視したとしても一向に構わない、ということを最後に付け足す。
だから、これまでにわたしの文章が彼の文章になったことは、一文字たりともないのだ。
「こんな文章、俺でも書ける」
編集者はその言葉だけは言っちゃいけない、と、柳下さんは言う。
「だったら自分で書けばいいんだ。0から1を生み出すのがどんなに大変か、思い知れば良い」
柳下さんはその言葉を繰り返し言う。まるで自分に言い聞かせるように。
わたしはそれを聞くたびに、ちょっと泣きそうになる。
「0から1を生み出すのがどんなに大変か」
そのことをわかってもらえたような気がして。
書き手はいつも、100を目指している。
初稿で100が出せたらいいけれど、もちろんそんなことは(わたしの場合)不可能に近い。
何もない真っ白なところに、一文字一文字書いていく。書いては消し、書いては消し、ああやっぱり全然違うと最初から書き直し、ああでもやっぱりもったいないなと、これまで書いたものもちゃんと隅に置いておきながら。
そんなふうにしながら、0から1をなんとか生み出す。
そこから、10へ、50へ、100へ向かって、にじり寄るように書き直していく。
すでにあるものを膨らませたり、刈り込んだりするのは、編集者が一緒になって手伝ってくれる。
だけど、0から1だけは、誰にも頼ることができない。
編集者がついていてくれようと、その部分だけは自力でやるしかない。
そしていちばんしんどいところも、またその部分なのだ。
柳下さんははっきりと言う。
「作家がいちばんすごい」
誰がいちばん偉いとか、いちばんすごいとか、そういうことを言う人ではないのだけど、「作家」についてだけははっきりとそう言う。
「そして、僕は作家じゃない。僕には小説なんか、逆立ちしたって書けない。だから、編集者をしているんだよ」
カセットテープを作って友人のもとに持ってきたジャック・ブラックは、大音量でそれをかけてやりながら、とても気持ち良さそうに、陶酔するように踊りまくる。そして、その曲の良さをわかってくれない友人に向かって、「なんでこの曲の良さがわからないのか」と本当に不思議そうな顔をして、カセットが止められたことに抗議する。
それを見ながら、「わたしにこういうことができるかな?」と思った。
ジャック・ブラックはまさに「編集者」だった。
柳下さんは、編集に必要なのは「愛」と「美意識」だと言った。
「たとえ世界中の人がつまらないと言っても、自分だけはその作品を素晴らしいと言い続ける」
それが編集者なのだと。
編集者の「愛」は、自分の選んだ作家を信じる心。
編集者の「美意識」は、自分の審美眼を信じる心。
多分、編集者はそのふたつでできている。
そんな編集者に信じられたら、書くしかないなあと思う。
わたしはわたしの「美意識」を燃やしながら、リリックを紡ぎ出すしかないなあと。
メモ:
今後書いていきたいもの。
・「美意識」と「センス」の違いとは何か。
・「モテる」とはどういうことか。
・デザインと気持ち良さ(あるいは安心感と違和感)。