「誰がインタビュアーをインタビューするのか」問題

先日、慶應義塾大学SFCの清水先生からお声がけいただき、「オーラル・コミュニケーション」ゼミにて、講義をさせていただいた。

お題は「聴くことと書くこと」について。
わたしがこれまでどのようにこのふたつと向き合ってきたのかを話してほしいと、メールをいただいたのだ。

受講生のみなさんはそれぞれプロジェクトテーマを持っていて、これからインタビューを控えているという。せっかく呼んでくださったのだ。そんな彼らに、少しでも役立つことをお話できたらと思い、自分の「インタビュー法」なるものをせっせとまとめた。


柳下さんは「僕も行くよ!」と言った。
担当編集者として同行してくれるのだそうだ。
「忙しいと思うし、ひとりでも大丈夫だよ」
と答えると、「僕も聞きたいんだ」と言う。
「君のインタビューは横で見ていて本当におもしろいからね。あのインタビューがどんなふうに言語化されるのか、話を聴くのが楽しみだ」
それで当日、新横浜駅から慶應義塾大学まで車で送ってくれた。
「頭を使うだろうから、糖分とカフェインをとらないとね」
と、緊張しているわたしに、コーヒーとドーナツを渡してくれながら。


教室に入ると、わたしよりも柳下さんのほうにみんな注目した。
それもそうだろう。もじゃもじゃの頭、「ロボ」と書かれたTシャツにアロハシャツ、そして海パン。もちろん足元はビーチサンダル。
柳下さんは「ドレスコードを間違えたな」と言って、そそくさと教室の後ろに行き、ちんまりと座った。そして、ニコニコとわたしの講義が始まるのを待つのだった。


教壇に立ってまず、わたしはこう言った。
「先にお伝えしておくと、わたしはインタビューを体系だてて学んだことがないんです」

学生さんたちが目を丸くしてこっちを見ている。どきどきしながら言葉を続ける。

「わたしはインタビューを誰かにちゃんと教わったり、本を読んで勉強したことがありません。15年間、ずっと実践の繰り返しでやってきました。言うなれば独学で、非常に偏ったやり方なんだと思うのですが、わたしなりに大事にしていることをまとめてきたので、ご参考までに聞いていただけたらと思います」

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講義はなんとか終わり、次に質疑応答の時間を迎えた。
そのとき、こんな質問があった。

「土門さんはインタビューについて学んだことがないとおっしゃっていましたが、それなのにどうして、ご自分のインタビューを言語化して体系化することができるのでしょうか。私は自分のインタビューを客観視することができないんです。土門さんは、いつもインタビューが終わったあとに、反省会などをされているのですか?」

すごく意外な質問だったので、わたしは答えに詰まった。
どうして、言語化して体系化できるのか。
そんなこと、考えたこともなかった。

「……反省会は、していますね」

しばらく考えてから、そう答えた。

「えっと、柳下さんとしてます」

学生さんたちが一斉に柳下さんのほうを見る。柳下さんは突然名前を呼ばれて、目をぱちぱちさせた。

「柳下さんは、わたしのインタビューにいつもカメラマンとして同行してくれるんですよ。それで、インタビューが終わったあとにはお茶をしながら、『今日のインタビューは、自分ではどう思った?』とか『いつもとやり方が違ったけど、それはどうして?』とか聞いてくれるんです。そのやりとりで、インタビューの方法について言語化できていったのかもしれません」

そう答えると、質問をした学生さんは「なるほど」と言った。
とてもおもしろい質問だな、と思った。「自分のインタビューを客観視することができない」だなんて、ちゃんと自覚できているのがすごい。
これは、「誰がインタビュアーをインタビューするのか」問題だ。

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いつだったか、柳下さんがこんなことを言っていた。
「誰が編集者を編集するんだろうね」
それを聞いてわたしは「編集者の編集者?」と聞き返した。

「うん。誰が編集者を編集するのか問題。だって編集者こそ、いちばん編集されるべき人でしょう?」

なるほど、と思う。確かにそうかもしれない。
作品、装丁、校正、製本、流通、販売……客観に客観を重ねた部分を担う人だからこそ、さらにその人を客観する立ち位置の人がいるはずだ。なぜなら、「客観に客観を重ねた部分を担う人」がゆがんだ主観に溺れてしまったら、すべての客観がゆがんでしまうから。

「誰がカメラマンを撮影するのか」
「誰がデザイナーをデザインするのか」
「誰が経営者を経営するのか」

柳下さんは、よくその問題について考えているようだ。
わたしは彼がその問いを発するとき「誰なんだろうねえ」と言いながら、一緒に考えている。

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まさにこの質問は「土門さんというインタビュアーをインタビューするのは誰ですか?」ということだったのだろうなと思った。

インタビュアーであるわたしがインタビュイーを「おもしろい!」と興味深く見つめるように、そのわたしを「おもしろい!」と興味深く見つめる人物がいる。そして、「今日のインタビューはどうだった?」とインタビューする。それが、柳下さんだったのだ。

インタビュー中、カメラマンである柳下さんは、わたしの作るインタビュー空間をカメラに収めながら、インタビューの会話をじっと聞いている。
そしてインタビューが終わると必ず言うのだ。
「今日のインタビューも、とてもおもしろかった」

わたしは、自分のインタビューがおもしろいかどうかなんて考えてもみないので、「どうおもしろかった?」と尋ねる。

「今日のインタビューは、いつもと少しやり方を変えていたよね? 彼が言葉を探しているあいだ、決して助け舟となるような言葉を挟んだりしないで、じっと辛抱強く待っていた。僕がそわそわするくらいに。あれはなぜだったの?」

そう言われてやっと、確かに自分が「じっと待っていた」ということを思い出す。
それで「あれはね……」と話し始める。そうしてやっと、自分のなかでねらいがあったことに気づくのだ。

そのとき、客観のいちばん外側にいた自分自身が、ぐっとまた外に出る感じがする。
さっきまでの自分を、さらに客観的に見て言語化している自分。
あの繰り返しで、わたしは「わたしのインタビュー」を体系化してきたのだな、と思った。

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教室のいちばん後ろで、「ロボ」と描かれたTシャツを着た柳下さんが、ニコニコしながらこちらを見ている。
終わったら、講義がどうだったか聞いてみよう。

ああ、コーヒーとドーナツが食べたいな。

実録!人類最大の哺乳類 “ヤナシタ”の生態を暴く

猛獣よりも猛獣使いの方が、実は強かったりするのだけれど、
中野友彦は、その猛獣使いを使役する猛獣だったりする。
ようするに、とても仕事のできる男だということ。

マネジメントもプレイングも、彼にかかればトップレベルで解決する。
空中にふわふわと浮かんだ難問を、難なく着地させることから、
皆からは着地屋と呼ばれている。
実に気の利いた呼び名だと思う。

 
*****

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みなさん、ヤナシタを生で見たことはありますか?
特徴的なシルエットをした人類最大の哺乳類。
メディアを通して見たことはあっても、生のヤナシタを見た読者は意外にも少ないのではないでしょうか?
なかなか近くで観察する機会も少なく、まだまだ謎の多い生き物ですが、ヤナシタは私たちと同じ哺乳類の仲間なんですよ。そう考えると、急に身近に感じてきますよね。
さぁ、めくるめくヤナシタの生態を暴いていきましょう。

 

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ヤナシタには、コウセイ・コウエツ、ショテン、ヤッテコなどの仲間がたくさんいます。
しかしヤナシタは、いつどこに出没するかが把握できないため、しびれを切らした仲間たちは特殊なセンサーを使って、東京駅、京都駅の八条口宮益坂に張り巡らせ、その行動を観察しているそうです。センサーが反応した結果は、より広い研究がなされるために、オープンソースとなっています。Twitterへ自動的に投稿されていますので、生のヤナシタをその目で見たい方は要チェックですよ。
(なお、2018/12月から2019年6月4日現在までの約半年間に、宮益坂を45回通過、八条口あたりには61回、東京駅のあたりには87回出没したことがわかっている。)

 

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ヤナシタは、仲間のひとりひとりに遺言のようなものを残すことで知られています。これは万が一息絶えた際、仲間が路頭に迷わないように「シゴト」の在処が記載されたもので、「タナゴコロ」と呼ばれる大きなヒレを上手に使って書かれるようです。仲間を大切にするヤナシタならではの習性ですね。

 

f:id:youcannotdie:20190604113324j:plainヤナシタは非常に厚い皮膚に覆われているため、とっても寒さに強く、氷点下の環境でも裸足で過ごすことができます。また、環境に関わらず一年間のほとんどをTシャツで過ごし、「クロックス」と呼ばれるワニに類似した目印を持つ履物を好みます。


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ヤナシタ1匹捕れば七浦潤うと言われるほど、ヤナシタには捨てるところがないと言われています。
特に、女子から人気の高い「モジャモジャ」と呼ばれる髪の強度は、グラフェンカーボンナノチューブにも引けをとらないと言われ、世界中の科学者たちから研究対象として注目されています。


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ヤナシタの外見でもっとも特徴である「モジャモジャ」は脳から直接生えているもので、外界にある必要な情報とそうでない情報をこし分ける、非常に重要な役割をしています。
諸説あるもののヒトの頭髪は約10~15万本と言われていますが、ヤナシタの頭髪は本を読む毎に増えていき令和元年の現在、その数は約2000万本を超えると言われています。


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一般的に、ほとんど寝ないでも生きていけると言われているヤナシタですから、睡眠を取る姿を観察できるのは非常に貴重です。2018年に発表された論文によると、ヤナシタは眠りが深くなると、壁が震えるほどの超音波で歌をうたうそうです。これは「イビキ」と言われ、とてつもない音量を発することで周囲の危険から身を護るのとともに、日中食べたごはんやおやつを消化する役割があり、一説にはメスへの求愛も担っているのではないかとも言われています。また、寝床には平な場所を好むヤナシタですが、基本的には窓を閉め切った車中など、過酷な環境下でも問題なく眠ることできます。


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ヤナシタの肉はビタミンが豊富でカロリーも低く、タンパク質が非常に多い高級食品とされています。
特に、移動距離の多いヤナシタならではの食感で大変人気のある部位が、ふくらはぎにあたる「ドラム」と呼ばれる部位で、圧力釜でジューシーに揚げたアメリカ発祥の料理や、ヤナシタの出汁が味わえるという理由で、骨付きのままカレーにするシェフも多いです。

 

 

いかがだったでしょうか。
まだまだその生態が明らかにならないヤナシタ。
生のヤナシタを観察できる機会があれば、ぜひ、あなたなりのヤナシタの生態を明らかにしてみてくださいね。
そして、数年後にはヤナシタ図鑑をみんなで作りましょう。 

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文章に必要な「水分」と「油分」

30歳を過ぎてから肌質が変わった。
前にもここに書いたけれど、そのころ、極端に肌が荒れた。あれは本当に悲しかった。皮膚科に行って強い薬をもらってなんとか治したけど、すぐに再発するので参ってしまった。あれこれ試行錯誤した結果、おそらくこれだという原因がわかった。それは水分と油分の不足。若い頃には過剰な油分こそが肌荒れの原因だったのに、今度は少ない油分が原因だという。歳をとると油が抜けるから補えと。要はバランスだということだ。結局、スクワランオイルと保湿ジェルを使い始めたら肌荒れが落ちついた。今もそのふたつは手放せない。

それからことあるごとに、水分と油分について考える日々である。みずみずしさと、つややかさ。そのふたつがなくなると、かたくこわばってしまう。それは肌だけではなく、いろいろなことに当てはまる。たとえば文章。文章を書くのにも、水分と油分は欠かせない。

では水分と油分というのはなんなんだろうと考えると、水分というのは文字通り「水」で、油分というのは「火」だということを思った。つまり、循環と熱である。「水(循環)」だけだと流れるだけであとに残らない文章になってしまうし、「油(熱)」だけだとねっとりとしたひとりよがりな文章になってしまう。だから両方がいる。そのように思う。

ところでわたしは今、締め切りがやばいことになっている。締め切りというのは厄介だ。それまでに終わらせようとスケジューリングして、いざ時間を確保して机に座っても、書けないというときがどうしてもある。やれば終わる、というのはもちろんその通りだが、予定通りに進捗する、ということはなかなかありえない。書けないものは書けないからだ。あるいは書けても納得いかないからだ。じゃあなんで納得したものが書けないかというと、水分か油分のどっちか、あるいはどちらもが足りていないことが多い。

これまでに柳下さんに言われたことで、できていないことがひとつある。それは、「二週間に一度、平日に休みをとること」だ。今年の始めあたりにそれを言われたが、いまだにできないでいる。なぜなら締め切りがあるからである。休んでいる暇はない。
だけど柳下さんは、
「このままだと集中力の質が低下したまま進むことになる」
と言った。
「二週間に一度、できたら一週間に一度、完全オフラインになる時間が君には必要だ。なんでもいい。プールでぷかぷか浮かぶでもいいし、映画館でぼーっと映画を観るでもいいし、ひたすら眠るでもいい。そういう時間を持つことが、結果的に君の書く時間を良いものにして延ばしてくれる」

その言葉を思い出すのは、決まって締め切りに追われているときだ。
追われるように書いていると、自分の頭から、目から、手から、水分と油分が抜けていくのを感じる。かたくこわばった地面からは、なんにも出てこない。ああ、休みが必要だなと思う。水分と油分を取り戻すために。わたしの書く時間にそれらを染み込ませ、良いものにしてこねて延ばすために。

今は少しだけ仮眠する勇気を身につけた。眠ると、少しだけ水分と油分が戻っているのがわかるのだ。

みずみずしさとつややかさを堪えた文章。そういう文章が書けたらいいなと思う。かぴかぴに乾いたら、休もう。とりあえず。

ちなみに今は、水分も油分も足りていない。それなのでこれ以上はもう書けない。
今のわたしには、少しの休みが必要かもしれない。

「黄金期」について

もうすぐ二冊の本が出る。

小説『戦争と五人の女』と、ルポルタージュ『経営者の孤独』という本だ。
夏には両方出ている予定だけど、あまり実感がわかない。まだ書かなくてはいけない原稿もあるし、道半ばを歩んでいる真っ最中だからかもしれない。締め切りが近いからかなんだか緊張していて、よく眠れない日々が続いている。

夏といえば、柳下さんと出会ったのも夏だった。あれは2016年だったので、まだ出会ってから3年も経っていないんだなと思う。柳下さんが編集についてから、わたしは小説を書き始め、会社を辞め、出版社を立ち上げ、家で文章を書くのが仕事になった。小説や短歌やインタビュー記事など、毎日たくさん文章を書いた。

この3年は、「書く」ということにピントが絞られ加速した期間だった。ここまで「書く」ことに集中できる時間は、生まれてこの方一度もなくて、わたしは最初の1年で5キロやせた。その体重はいまだ戻らないままだ。


朝起きて、子供を保育園に預ける。そのあと家に帰って、おもちゃを片付けたり掃除機をかけたりする。コーヒーを淹れ、原稿に向かう。それから夕方までひたすら書く。集中が切れたら本やインターネットの中を回遊しいろんな文章を読み、満足したら「がんばろう」とつぶやき、また原稿に向かう。ときどき取材や打ち合わせに出かける以外はほとんど人と話さず、家でひとり、テーブルの前から動かない。原稿ができたら柳下さんに送り、赤字を入れてもらい、また書き直し、校了する。

あまり変わり映えのない毎日だ。ときどき人と会わなすぎてさみしくなることもある。
だけど、こんな毎日以外にどんな毎日があるのか、今のわたしには想像もできない。


「こんな毎日以外にどんな毎日があるのか、今のわたしには想像もできない」
そう思ったのは今朝、自転車でクリーニング屋さんに冬服を取りに行っているときだった。

帰ったらあの原稿を読み直そう。これでいいと思ったら柳下さんに送ろう。返事を待っているあいだにプールに行って少し泳ごう。帰ってきたらご飯を食べて、また別の原稿に取り掛かろう。
1日のスケジュールを組み立てながら、「書く」時間がどれくらいとれるか算段する。

そのときふと、思い出した。
若いころは、いつも「書きたい」と思っていたことを。
あのころわたしは「こんな毎日」とは違う「別の毎日」を夢見ていた。「こんな自分」とは別の「本当の自分」がいて、早くそれになりたいと思っていた。


今ようやく、「こんな自分」と「本当の自分」が、ぴったりと合わさっているのだと思う。
そのことに気づいて、これはすごいことだと思った。素晴らしいことでもあるし、過酷なことでもある。なぜなら、「こんな自分」と「本当の自分」がぴったり一致していたら、ごまかしが一切効かない。二重だった輪郭は一重となり、裸で世界に飛び込むようなものだ。たくさんの傷がダイレクトにつく。

ああだから、すごく大変なんだなと思った。それはまあ、痩せもするだろうなと。
だけどわたしは、この一重の輪郭のままでいたい。傷ついてもいいし、泣いてもいい(良くはないけど、受け入れる)。
だからわたしは、このまま世界に直接触っていたい。



「君はもっと書くことに専念するべきだ。できる限り多くの文章を生み出すべきだ」

柳下さんは、出会ってから半年くらいのときにそう言った。
その言葉でわたしは、人生が変わったと思っている。
人生が変わる言葉っていうのは、本当に存在するのだ。その存在を知っているから、わたしはずっと文章を読み、書き続けている。

「こんなことを言うのはとても勇気のいることなんだ。なぜなら、ひとの人生を変えてしまうことだから」

柳下さんもそんな言葉の存在を知っている人だった。だけど、その言葉をきちんと発してくれた。そして人生の変わったわたしと、並走もしてくれた。「できる限り多くの文章」を生み出すために。


「黄金期」というのがあるとするなら、わたしのそれは今かもしれない。
成功したり、大金持ちになったり、有名になったりすることなんかじゃなく、「こんな自分」と「本当の自分」がぴったり合致するときのことを、きっと「黄金期」と呼ぶのだと思う。
あいまいだった二重の輪郭が重なり、分厚い一重になる。そのとき自分のなかに光のようなものが生まれる。わたしはその光を消さないように、毎日文章を書いている。きっとそのかすかな光が見えてるときが「黄金期」なんだろう。


だから、柳下さんには感謝している。
「土門蘭が土門蘭として文章を書くことがすべてなんだよ」
そうわたしに言い続けてくれたことを。

かすかな光が消えないように、今日も明日も書いていく。
道半ばでも、どの場所でも、わたしがわたしとして書き続けることができれば、それはわたしの「黄金期」だ。

柳下さんが、いる

竹中直己は、カレーの人であり、彼のコミュニケーションはカレーを媒介して行われる。
世は称して、アズノウンアズ、彼はタケナカリー。
そして彼には、ユニークな文才もあり、その文章には必ず密度と湿度と内圧がある。

本稿にもその才気があふれているが、しかし、ご用心。
静かに迫る筆力が生み出すサイコな文字群を読み終えても、まだ、この文章には仕掛けがある。
是非とも、通読後に、気になった部分を読み返していただきたい。

 
*****

僭越ながら「やなしな(「柳下さん死なないで」の略)」のバトンを授かった。僕なりに、僕が捉えている「柳下さん」について筆を執ろうと思う。

まずは柳下さんに、ないもの、の話をしたい。

柳下さんには、利己心がない。

そういうと、慈愛に満ちた聖人のように捉えられそうだが、そうではない。正確に言うと、柳下さんの場合、理想と利己的な欲求が殆ど重なり合っていないように見えるのだ。「こうなったらいいなぁ」という世界はある。しかし、そこに自分がいてもいなくてもいい、そういう観念で生きている、たぶん。

柳下さんは、
「本の作り手が増えて、本がもっと売れればいいと思っているよ」
と言った。

柳下さんは、校閲者だし、編集者だし、時々カメラマンだけど、やっぱり起業家だ。

柳下さんは、本が売れないことについて批評や分析で終わらせず、解決しようと動く。僕は柳下さんのこういう姿勢が好きだ。

「ことりぎ」という既成概念を変えた本の流通にチャレンジするし、校正・校閲の仕事で本に関わる同朋と文化を守り続けている。

最近では日本橋にオープンした本棚と本をセットで販売する「HummingBird Bookshelf (ハミングバードブックシェルフ)」だ。
是非、足を運んで “自分に合う本棚と選書とは何か?”という愉快な審美を体験して欲しい。僕はここでポップで楽しい短歌の世界に出会えた。

柳下さんは本が売れるように本棚から売るし、そこから「暮らしに本がある風景」という提案にまで着地させる。こういうのが、いい大人の “ カッコいい仕事 ” だと心から感心してしまう。

それでいて電子書籍を否定していないのも柳下さんっぽい。

「高度によって読める電子書籍とかあったら、ワクワクしない? 例えば、池袋のサンシャインの最上階じゃないと読めない小説とかさ!」

僕はこの話を聞いてとってもワクワクして胸が高鳴った。柳下さんは優れたアイデアマンでもある。

ただ、こういうアイデアを実行するってことも、別に自分じゃなくてもいいと思っている。己の手柄とかどうでもいいのだ、いろんな「本」が生まれて、いろんな「本」が売れれば。

その関心は「人と本との出会い」にしかない。どうしようもなくそこ。そこを演出するという悦びが尊すて、結局は、金儲けをしたくて本を売っているのではなくて、本を売りたくて金を稼いでいる。

こういう人間は信用できる。理想の為に自己を無視していたら、いつの間にか利己が霧散しちゃう人。こういう人は嘘がつけない。嘘の大半は自分を守るために取り繕うことだ。柳下さんは、そんな暇があったら本のことを考えている。


プラネテス」という漫画がある。その作品にはウェルナー・ロックスミスという宇宙に取り憑かれたロケット工学の天才技術者が登場する。

作中では、彼が指揮するエンジン開発プロジェクトで大事故が起こり、莫大な損害と大変な数の死者を出してしまう。被害は甚大で、辞職を余儀なくされる場面だが、その責任をメディアに追求された際、彼はこう返答した。

「爆発した二号エンジンの残したデータの内容には満足しています。次は失敗しません。御期待下さい」

謝罪ではなく「報われるよ」と言った。当然、非難を浴びせられるが本人は物ともしない。なぜなら彼は「宇宙船以外何ひとつ愛せない逸材」だから。

僕は、この思考って柳下さん的だな、と思う。すごくシンプルに目的を優先するところは一緒だ。一種の狂気がある。柳下さんもこの狂気を確実に纏っている。

柳下さんは温和で可愛らしくもある風貌だけど、本当はこういった“ 怖さ ”がある人だ。僕は、そう捉えている。


柳下さんをなんとなくわかりはじめているけど、僕と柳下さんが初めて出会ったのはいつだろう?

どこでいつだったか思い出せない。「知のドワーフ」というピッタリの異名を持つほど印象的なのに。それくらい自然に人の人生に溶け込んでしまうのも柳下さんだ。

僕の母なんかも、SNSを通して既に柳下さんは身内のポジションになっていて「あのモジャモジャの人、元気?」なんて言ったりする。母は柳下さんに直接会ったことはない。けれど、その言葉の端には “息子のまわりにいる人気者の友達” という親しげな空気が漂っていた。

誰からも愛されてしまう柳下さん。改めて稀有な人だと思う。僕自身だけでなく僕の周りも含めて柳下さんを放っておけない。

気づくと、柳下さんは日常化し、僕達の細胞に浸潤していく。

柳下さんと懇意にしている人なら共感できるかもしれないが、何かの判断に迫られた時、ふと「柳下さんなら、どうするかな?」と彼の基準を参考にしてしまうことがある。

ただ、これは師匠とか、今風に言うとメンターとかの高尚な分類とは少し違う気がする。柳下さんは決して偉そうにしない。相手の目線に合わせて話をするのがとても上手だ。だから、尊敬しているが、もっと身近なもの。肩に小さな柳下さんがとまっているような感覚というのがしっくりくる。

酒を飲んだ帰りにコンビニでスイーツを買おうとするときも、肩に止まった柳下さんが言う。
「本当にそれは今の君に必要なものだろうか? まあ『今を楽しく!』の連続が人生でもあるがね!」
核心の後に、ユーモアとアイロニーを足すのが柳下さんだ。
柳下さんの髪の毛が首筋に当たってこそばゆい。


ただ、最近はちょっと柳下さんがわからない。
風呂に入っていると、かなりの確率で柳下さんが邪魔をしてくるのだ。

僕は湯船に浸かる時は、シャワーを使わず、桶で浴槽の湯を掬ってシャンプーや身体の泡を流すのだけど、僕がシャンプーの泡が入ってこないよう目を瞑っているのをいいことに、桶を浴槽に入れようとするとボヨンとした弾力が返ってくるのだ。

「柳下さん……またですか?」

目を瞑っていても察しが付く。桶が柳下さんのお腹にあたったのだ。

「一緒にお風呂に入ると気持ちいいねー! ハハッー! 誰かと一緒に風呂に入るのは日本特有の文化、なんて考えているのは日本人だけなんだけどね!」

目を開けると柳下さんはいなくなっている。どうせ現れるなら背中を流すくらいのコミュニケーションを取ってほしい。

一昨日は家でカレーを作っている時に現れた。換気扇が煙を吸い込まないなーと思ったら、コンロの上の換気扇が柳下さんで埋まっている。柳下さんの肉片と体毛がドロドロに溶けながら蠢き、煙を吸う箇所を塞いでいた。そのくせ、顔の形成だけはしっかりと維持しているのだから、呑気なもんだ。

「柳下さん、もう、カレー作るのは邪魔しないで下さいよー」

「ふふふ! ところで、僕のこの姿で思い出すのは、カフカの『変身』の方? それとも、クリス・カニンガムのミュージックビデオの方かな?」

そう言った後に、柳下さんは少しだけ自分の肉片でムカデみたいな無数の細い足を形状しようとした。

「あー、カフカです、カフカの方ですってば」

僕がそう言うと、満足そうな笑みを浮かべて柳下さんは換気扇の奥に吸い込まれていった。僕がスパイスをどう使うか悩んでいる最中でもおかまいなしで、あの人は本の話がしたいのだ。油断がならない。

でも、柳下さんが僕に会いに来てくれること自体は嬉しいんだ。みんなの人気者で、あんなに多忙を極める人が、わざわざ僕のところまで来てくれるんだ。ありがたいと思う方が正しいだろう。

ただ、だからこそ、気になっていることがある。
僕のところに来てから、柳下さんは、どこに帰っていくのだろう?

僕のところに突然現れるように、僕以外の家々にも出現していたりするのだろうか……もし、その中に居心地の良い安息の地があったら……。

僕はfade out していく恋の終息みたいなものがよぎった。柳下さんが僕のところに現れなくなるのも時間の問題かもしれない。外を見ると雨が降っていた。今日は寒い。結露が涙みたいに哀しく滴れた。


熟慮した結果、僕は柳下さんをカレーにすることにした。

柳下さんが、僕の中に入ってしまえば全てが解決するし、柳下さんをたぶらかしそうな輩を僕が切り刻まくても済むし、そもそも、柳下さんは美味しそうなんだ。

そう、美味しそうなんだ。ずっと、柳下さんは、美味しそうだった。美味しそうだった。僕は柳下さんをカレーにしたかったんだ。

レシピは下記です。



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 ♡バタバタやなりんのダブトマカレー♡

〜 材料4人前 〜
・柳下恭平モモ肉:  4O0g
・トマト:       1個
・トマトピューレ:  150ml
・ヨーグルト:   大さじ6
・生クリーム:    100ml
・バター:       60g
・ニンニク:      4片
・生姜:        1片
・水:          60ml
・砂糖:      大さじ2
・塩:          適量
パクチー:       適量

〜スパイス〜
・カレー粉:    大さじ3
・カルダモン:     8粒
クローブ:      6粒
・唐辛子:       1本
・カスリメティ:  大さじ2
・バター:     大さじ2
・マンゴーチャツネ:小さじ2

 

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みんなが大好きなバターチキンカレーを柳下さんで作るよ! 焦がしトマトとトマトピューレをダブルで使うから旨味成分がバッチリ!

① 柳下さんの捕獲
著名で印象的な人だし、体躯も大きい。従って誘拐は難しいです。「かわいい女の子が来るカレー会があるんです!」と呼び出しましょう。席に座ったら有無も言わさず後頭部を重量のあるものでバコーン!です。後で燃やせるから、木刀とか角材みたいのがいい。動けなくさせるのが目的で ここで殺しちゃダメ。虫の息状態がベスト!

② 血抜き
まだ息がある柳下さんを浴室に運びます。右耳から左耳にかけて、顎下を通ってアーチを描くように包丁を入れましょう! その次は、左右の足の付根にも包丁を入れます。嘘みたいに 血がドバドバ出てきますww  バスタブにお湯入れて、半身浴みたいにすると時短ダヨッ!

③ 脳の処理
ナタか出刃包丁で頭を割ります。もじゃもじゃの髪がついたままの頭皮と脳漿が飛び散り、大脳が露出します。この時、大脳が灰色であることに不安を覚えるかもだけど、腐ってるわけじゃありません! 何度か試していますが人間の脳は灰色(笑)柳下さんだからってピンクじゃないんだゾ(爆笑)後で「柳下さんのブレインマサラ」に使うので脳幹を切り取ってzipロックで冷凍保存!

④ 陰部の処理
脳の処理を終えたら、大急ぎで陰茎と陰嚢をセットで肛門あたりから前立腺を覆うようにカットしてzipロックに! こちらも冷凍保存です。人間は、ここから悪くなるからね!それに柳下さんはテるから残しておかなくちゃね!コレは誰かのためのもの!(※僕にだってこれくらいの倫理観はあるゾ!)

⑤ 消化器官の処理
小腸は便が入ってるので、しっかり洗います。まずはシャワーヘッドを外して腸管にハメて水を流し込む! 適当な長さで切って、裏返してタワシでゴシゴシです。IKEAの風呂タワシが固さとか丁度良い。歯ブラシで洗おうとしてた人がいたけど、それじゃ終わんねwww 大腸も一緒。胃袋は消化液が強いので手袋を。あ、柳下さんは食道裂孔ヘルニアだから、その辺は硬くて食べられないかも?

⑥ その他臓器
大きい肝臓はごちそうです。冷凍はもったいないので、できれば早く食べましょう。でも、まー、柳下さんの肝臓は大きいから、ご近所にお裾分けかな。肝臓を取ったら、膵臓と胆嚢を取ります。あ、胆嚢は胆汁出るから慎重に! そんで、横隔膜を取って、肺と心臓を取ったら解体です。※基本的に臓器はやっぱり冷凍ね。

⑦ 解体
最初は難しいけど、部位ごとに筋膜を意識してカットします。骨髄から出汁が取れるので骨も捨てずに。指は、そのまま食べると気持ち悪いからミキサーでつくねにします。爪だけ剥がしておきましょう。お肉のカットは結構細かくしておかないと解凍大変! 500g〜1kgが目安!

⑧ マリネ
一口大に切った柳下さんのもも肉(お尻の辺りが最高!)をヨーグルトとカレー粉、すりおろしたニンニクを入れて、よく揉んで馴染ませて、ボールに入れて冷蔵庫で2時間以上放置する。※本当は一晩がいいよ。

⑨ スターター・テンパリング
カルダモンとクローブを軽く弱火で乾煎りしてから、バターを入れます。柳下さんからも、しっかり油が出ますが強気でバター多めでいきましょう。カルダモンがぷくっとしてきたら、唐辛子と生姜とにんにくのみじん切りを入れて炒める。ポイントはずっと弱火!

⑩ ベース作り
ニンニクの色が変わったら、刻んだトマトを焦がすまで炒める。トマトピューレ、マンゴーチャツネを入れてさらに炒める。水を加えて弱火でフタをして5分煮る。

⑪ マリネ投入
マリネしてた柳下さんを投入。⑩で作ったベースに混ぜます。強火で一煮立ちさせて、砂糖、塩を入れ、弱火に戻してフタをしてさらに10分煮ます。余裕があるなら、別のフライパンで 柳下さんマリネを少し焦げ目がつくくらい 焼いてから合わせると、もっと美味しくなります。

⑫ 仕上げ
カスリメティを入れて、生クリームを入れて混ぜて、塩加減を調整して完成。パクチーもパラっとね。スパイス感が欲しかったら最後にガラムマサラやチリペッパーを入れてもいいでしょう。でも柳下さんはそこまで辛いのが得意じゃないから三温糖とか、はちみつで少し甘さ方向にふるのがいいかな?

どう?柳下さん? 
僕は、舌が筒状になって口から放り出されたままの柳下さんを両手で持ち上げて聞いてみた。
……うんう、え! あ! そっちwww

皆さん! 柳下さんは、
「僕は人生が辛いなんて思ったことなかったから、最後くらいちょっと辛くしとこうか!」
ですって! 最高! 流石ー!

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このカレーを食べる時は柳下さんの眼鏡をかけながら食べよう。

柳下さんは、死なないよ。
僕は、柳下さんを食べることによって、僕の中に、柳下さんを留めることができる。これからもずっと、僕の中に、柳下さんが、いる。

このカレーは、土門さんと一緒に食べたいな。
彼女には僕と同じように安心してほしいんだ。

でも、そうなると土門さんの中にも柳下さんがいることになっちゃうな。

柳下さんを食べた土門さんも、カレーにしないとな。

 





ライフイズカミングバック、あるいはアイアムカミングバック

この年度末、わたしがめちゃくちゃに情緒不安定だったというお話はもう何度かしたと思う。そのときにわたしを大いに助けてくれたのが、漫画だった。作品は冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』。低迷期間は暇があればこの漫画ばかり読んでいて、本当に救われていた。おかげで今は、だいぶ元どおりになっている。


今回の件でわかったことがある。それは、「現実逃避」の有効性についてだった。

わたしは「現実逃避」というのをあまりしない人間だ。元来心配性で臆病なので、逃避しているあいだに現実がどうなっているのか心配でしょうがなく、現実にかじりついて見守ってしまい、いつまでも手をねちねちとくわえてしまうところがある。そしてあれこれ思いをめぐらせ、ああなるかもしれないこうなるかもしれないとひとりくよくよし、いらない心配やいらないことまでしてしまい、結果的に疲弊する、ということになる。つまり、現実から逃げなかったために現実にやられてしまうわけだ。

今回の年度末もそんな感じだった。「自分ががんばらなきゃ」と思うことは良いことでもあるけれど、「自分ががんばればどうにかなる」と思いすぎると過度に自分を責めることになる(世の中にはがんばってもどうしようもないことも割といっぱいある)。
案の定力を入れすぎて眠れなくなったりしてしまって、毎日疲れ切った顔で生きていた。もうだめだ、と思うくらいに。


そんな日々の中でふと、高校の国語の先生に言われたことを思い出した。

「もしこの先死にたくなったら、本を100冊読みなさい。多分50冊にもいかないあたりで、また生きようと思うはずだから」

わたしはその言葉をずっとお守りにしていて、忠実に守っている。だからこういう「もうだめだ」というときは、自分が読みたかった本(Amazonのカートとかに入れてるやつ)の中から一番そのとき読みたい・あるいは読めそうな本を買い、読むようにしている。

それで今回買ったのが『HUNTER×HUNTER』(1-36巻)だった。いわゆる大人買いである。子供の頃本誌で読んでいたのだけど、大人になってからは長らく読んでいない。大きなダンボールで届いてからすぐ読み始めた。これがめちゃくちゃにおもしろかった。

ゴン、キルア、クラピカ、レオリオ、そしてヒソカや幻影旅団。
魅力的なキャラクターが続々と登場し、自らの能力を鍛え、限界を超える戦いの中でまたさらに成長する。狂気すれすれの純粋さを持つ主人公ゴンと、その彼に光を見る暗殺エリートのキルア。そして「団長」しか目的でない、あるいは信じてない幻影旅団。
わたしは予想もつかない展開にすっかり魅了されて、目が疲れてちかちかになるまで読みふけった。

まさしくそれは「現実逃避」だった。
書かなくてはいけない原稿、返さなくてはいけないメール、処理しなくてはいけない書類、洗わなくてはいけない食器、世話をしなくてはいけない子供たち。わたしはそういった「現実」から一旦目をそらし、少年ジャンプコミックスに没入していた。

本を閉じ、逃避先から帰ってくると、そこには依然として変わらない「現実」がある。だけど「はー、面白かった」とつぶやき顔を上げるたび、自分がどこか元気になっていることに気がついたのである。つまり「現実」は変わらないけれど、自分だけが少し変わっていたのだった。


そのとき思ったのが「現実逃避の有効性」、つまり「主人公を明け渡すことの有効性」だった。

わたしは「現実」のなかで「主人公」として生きている。だけど時折、それが煮詰まることがある。そういうときに一旦「主人公」を自分ではない人に明け渡し、もうひとつの「現実」を生きること。それが読書のひとつの効用なんだな、と思った。
本を読んでいる間、わたしは「主人公」という役割をいったん休むことができる。そして、自分ではない「主人公」の動向を見守ることで、自分という「主人公」を見つめ直すことができる。

ゴンは人を信じることを恐れないよなあ。キルアは小さい頃から訓練を重ねてきたんだなあ。クラピカは覚悟することで強くなったんだなあ。ヒソカは自分の欲に忠実だよなあ。そして誰もが誰にも依存していないで、自分の力で生きようと、仲間を助けようとしているよなあ。

そんな感じで、自分のなかにゴンやキルアやクラピカやヒソカが内面化されていく。その内面化は「自分にも少しはそういうところがあるのかもしれない」という気づきの作業だ。ぎゅっと近眼的に寄って見ていた自分の心を、少し離れたところから見て、光を異なる角度から当て直す感じ。

そしてそこで気づく。「うん、確かに自分にも少しはそういうところがある」。そして「自分もまた違うやり方で、いい感じに生きられるかもしれない」と思う。だからわたしは、少し元気になって「現実」に戻ってくることができる。



わたしが柳下さんと出会ったきっかけについて、ここに書いたことがあっただろうか?

せっかくなので今ここで書いておこうと思う。
柳下さんは共通の友達に紹介してもらった。
「この人は僕が知っている中で一番本を読んでる人だよ」
とその友達は言って、わたしたちは「初めまして」と言い合った(ちなみにわたしは、『いい文章を書く奴です』と紹介された。今井くん、ありがとう)。

それを機に柳下さんとSNSで繋がった。
そこで彼が「本と夜と時間と生活」についてのエッセイを書いているのを読んだことがある。少し長いけれど、大事なところなので、一部分を引用する。

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生活はいつもダラダラと続き、昨日と今日の区別はつかないまま。
でもね、逆説的だけど、読書が僕に時間をくれるのだと思っています。
夜、できれば雨なんて降ってるといいですが、ひとりで、小説でも随筆でも、何かを学ぶためや思索にふけるための実用書でも、ページを開いているときに、現実と違う時間軸が生まれます。
その時間だけが、生活をひととき忘れさせてくれます。
そして、ようやくリズムが生まれる。
僕は生活を忘れることによって、もう一度人生を思い出すことができるのです。
ライフイズカミングバック。変な理屈に聞こえるかもしれないけれども」

(『SHIPS Days 2016 Fall & Winter』より)
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柳下さんと知り合って、この夏で3年になるのだろうか。
だとすればこの3年間で彼が発した言葉の中で、わたしがもっとも好きなのはこの言葉だ。

「僕は生活を忘れることによって、もう一度人生を思い出すことができるのです」


わたしは「現実」から逃避することによってもう一度「現実」と向き合うことができた。国語の先生も、柳下さんも、本当にいいことを言う。いっぱい本を読んでいるからかもしれない。きっと何度も「現実」から離れ、いろいろな言葉を内面化して帰ってきたんだろう。


わたしたちは、どんなに人生に行き詰っても、何度だってカミングバックできる。
だって世の中には、こんなにいっぱい素敵な本があるのだから。

そうやって何度でも生き返る。現実と非現実を行き来しながら。

わたしが書く言葉は、まず、わたしの前に強く現れる

このあいだ、いつも行くお店でマッサージを受けていたら、担当のお姉さんに「春って苦手なんですよね」と言われた。

「なんだか気分が塞ぐっていうか、そういうの蘭さんないですか」

めちゃくちゃありますよ、とわたしは答える。
この2,3月は精神状態が非常に悪かったし、と言うか春に限らず年がら年中季節の変わり目というのに弱い。

するとお姉さんはとてもびっくりしたように「蘭さんでもそうなんですか」と言う。
「仕事も子育ても両立してて、充実しているように見えたから」
「それは、お姉さんもそうでしょう」
彼女にも小さな子供がふたりいて、子育てしながら仕事もしている。お互いの子供どうしの年齢も近い。
「わたしにはお姉さんこそ、充実しているように見えてますよ」
すると彼女は、「えー全然ですよ」と言って笑った。

「わたしなんて中途半端なんですよ。子育ても仕事も、全部中途半端で、迷惑かけてばっかりで」
「いやいや、そんなことないですよ。いつもマッサージ気持ちいいですよ」
そう言うと、
「そう言っていただけるのは嬉しいんですけど」とお姉さんが困ったような顔をする。そういうことじゃないのは、わたしにもなんとなくわかるので、
「その気持ち、すごくわかりますよ。わたしもそうですよ」
と言った。

「本当ですか?」
「本当ですよ。ご飯作れないこともあるし、部屋ぐっちゃぐちゃのときもあるし、仕事の締切延ばしてもらうことだってあります。子供に当たることだってすごくありますし、それで自己嫌悪に陥って、洗濯物畳みながらめそめそ泣いたりしてますよ」

えー!と、頭の上でお姉さんの声が聴こえる。
お姉さんは、
「蘭さん、泣くんですか」
と言った。

驚いたポイントがそこだったことに、わたしは逆にびっくりする。
「え? めちゃくちゃ泣きますよ。泣かないんですか。お姉さんは」
それでそう尋ねたら、お姉さんはまるで小さな子供みたいに、
「泣いたらだめって言われているから」
と言った。

その言葉を聞いて、わたしは思わず口ごもる。なんとなく「誰に?」とは聞けなかった。

お姉さんは言った。
「泣き始めたらわたし、頭がわーっとなってうまくしゃべれなくなってしまうから、『話にならないから泣き止んで』って言われてしまうんです。だから、泣かないように泣かないようにって思うんですけど」
だめですよねえ、と彼女は弱々しく笑いながら言う。その顔を見ながら、わたしはなんだか悲しくなってしまった。

「でも、頭がわーっとなってしまっているから、言語化できないから、泣くんだと思うから」
と、たどたどしく返す。
「だから、泣いていいと思う。むしろ、泣くべきだと思います。一度感情を全部出して認めてあげるって、大事だと思うから」

するとお姉さんは、
「泣いてもいいんですかね」
と言った。わたしは強く頷いて、
「感情のデトックスだと思ったらいいんですよ」
と言った。
するとお姉さんは「そっかー」と笑ったけど、ちょっとつっつくと泣き出しそうな顔をしていた。 

その表情を見ながら、わたしも泣きそうになる。
「すみません、なんかわたしが泣きそう」
そう言うと、お姉さんは「ええー、なんでですか! 泣かないでください」と笑い出す。
わたしの目元にも、お姉さんの目元にも、ちょっと涙が浮かんでいて、「なんなんですかね」とふたりで言い合った。
「わたし、今度泣いてみます」
デトックス。と言って、お姉さんはまた笑った。



彼女と話しているとき、ずっと柳下さんとのやりとりを思い出していた。
さきにも書いたけれど、この2,3月は情緒不安定だった。理由はよくわからない。よくわからないからこそ、何もできずに耐えるしかなく、毎日生活していくので精一杯だった。
ここ最近は、柳下さんとは対面ではなくメッセージや電話でやりとりをすることが多かったのだけど、話をしているとなにかの拍子に泣きそうになることもあって、かなり困った。
仕事の話をしているのに泣き出してはいけないだろうと最初は我慢するのだけど、すぐに声の調子で気付かれる。
それで「ごめん、ちょっと泣きそう」と言うと、柳下さんはいつもすぐ、「泣いていいよ」と言うのだった。

「君はよく、『ごめん、泣きそう』って言うけれど、謝る必要はないし、泣いたらいいんだよ。泣きそうって言う前にもう、泣いたらいい。だって体の反応なんだから、無理に押しとどめたら、体に良くないでしょう? それは、トイレを我慢するのとおんなじだよ。トイレに行くのに『ごめん』も何もないでしょう?」

そう言われて、わたしは笑いながら「本当だね」と答える。
トイレを我慢するのは、確かに体に良くない。泣くのを我慢するのは、それと一緒なのかもしれない。

「それからね」と彼は続けた。
「僕とのメッセージで元気そうに振舞わなくていいよ。たとえば『!』マークな気分じゃないのに、『!』マークなんてつけなくていい。むしろ、返信すらしなくたっていい」

「そう?」と聞くと、「そうだよ」と彼は言った。

「そういうメッセージをもらうと、『土門さんは元気だ』って僕が勘違いしてしまうっていうのもあるけれど、君が自分で自分の書いた文章に傷つけられるのが一番よくないから」

「自分の書いた文章に傷つく」と、わたしは思わず繰り返す。
「君が書く言葉は、まず、君の前に強く現れるでしょう?」
と、柳下さんは言った。



そのとき、直近で自分の書いた言葉が、頭の中にぽつぽつと浮かんだ。
「了解!」「ありがとう!」「よろしくー!」

人間関係、仕事関係を円滑するため、わたしは日々さまざまな記号を使う。「!」だとか「(^^)」だとか「(笑)」だとか。
自分は今日も機嫌よく元気で過ごしていますよ、大丈夫ですよ、ということを暗に伝えるためだ。それが本当かどうかよりもさきに、相手に心配かけないようにと手が動く。

だけど、その記号があまりに自分の気持ちと乖離しているときには、その記号を画面上に打つたびに、自分が傷ついているのがわかるのだ。
キーボードを叩く手は重くなり、目の前に現れる言葉に小さく打ちのめされる。

傷ついているのは、小さな嘘をついているからなんだな、と思う。
自分よりも他人を優先する自分に、きっと失望しているんだろう。心のどこかで。



毎月わたしにマッサージを施してくれる彼女の笑顔は、いつも素敵だ。
でも、その笑顔も、もしかしたら彼女自身を小さく傷つけ続けているのかもしれない。
笑顔をつくるたびに。その顔を鏡で見るたびに。自分の笑い声を聞くたびに。

「君が書く言葉は、まず、君の前に強く現れるでしょう?」

一番近くにいる人間は、自分自身だ。
だからこそ、自分を一番傷つけるのも、自分自身なのかもしれない。

彼女が、泣きたいときに泣けますように、と思う。