「勇気を伝染させる仕事」

柳下さんはときどき「君に何か本を貸してあげよう」と言って、本を貸してくれる。柳下さんが選ぶ本は小説だったり漫画であったりノンフィクションであったり、多岐に及ぶのだけど、ぱっと見、なぜ彼がこの本を貸してくれたのかわからないことが多い。だけど読み始めると、「ああ、これは自分が今読むべき本だ」ということがわかる。柳下さんは人のために本を選ぶ能力が本当に高いなあと、感心してしまう。

このあいだ貸してもらったのは、メイ・サートンの小説『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』という本だ。メイ・サートンアメリカの女性の詩人であり小説家。50代のときに同性愛をテーマにした小説を書き、出版社の忠告を振り切って刊行した結果、それが理由で大学の職を失って、本も絶版になった。その後もパートナーとの別れ、病気、作品への酷評から、うつを患うこともあったらしい。
彼女の代表作は、ひとり暮らしの日々を綴った『独り居の日記』。題名だけは聞いたことがあったけれど、わたしはこれまで彼女の本を一冊も読んだことがなかった。だから柳下さんに借りた『ミセス・スティーヴンス……』が、初めて読むメイ・サートンだ。

これは詩人であるミセス・スティーヴンス(以下ヒラリー)と、彼女に詩作について聞こうとする若いインタビュアーふたりの話。わたし自身、創作もすればインタビューもするので、両者のやりとりがとても興味深い。入れ替わり立ち替わり両者の立場に身を置きながら、それぞれの発言を自分に照らし合わせながら読んでいる。

ゆうべ寝る前にこの本を読んでいたら、こんな文章に立ち会った。ヒラリーが、彼女にとっての「ミューズ」のひとりである社会学者のドロシーアについて回想するシーンだ。
彼女たちはふたりとも本を出し、自分の言葉を他人へ伝える作業をしているという点では共通している。だけどその内容は、ヒラリーは詩、ドロシーアは社会学の研究成果と、領域がずいぶん異なっていて、それが理由でふたりの間に摩擦が起きることが多い。

あるときヒラリーは、「わたしがおかす危険のほうが、ずっと大きいわ!」とドロシーアに言う。

「あなたの本みたいなものは、一生懸命、正直に努力さえすれば、失敗なんてありえない、それがわからない? わたしたちは、違う領域で働いているのだから。意志は助けてくれない。知性も助けてはくれないわ」
「何があなたの助けになるの?」ドロシーアは、いつもの皮肉な態度で訊いた。「冷たいシャワーとお酒?」
「神さま、天使さま……ああ、あなたには、わからない」
熱帯の豪雨のように、はげしい嗚咽の発作がふたたびはじまった。これは自信喪失の時代で、ヒラリーは自分が書いたものはことごとく救いがたいほど無価値だと思い込んだ。
引用元:『ミセス・スティーヴンスは人魚の歌を聞く』メイ・サートン 大社淑子訳(みすす書房)

この箇所を読んで、わたしはヒラリーの言葉に共感してしまった。社会学の論文が一概に「一生懸命、正直に努力さえすれば、失敗なんてありえない」のだとは言い切れないけれど、詩作にとっては完全に、作品の質と「正直」「努力」の量は比例しないと言い切れる。「絶対に書き上げるんだ」という意志も、「これまでにこういう経験をしこういう学びを得てきたんだ」という知性も、偶然助けられることはあっても必然的には助けてくれない。ヒラリーが言うように、「神さま」「天使さま」の出現を、ずっと待っているだけなのだ。

ただ、もちろん、「神さま」「天使さま」の出現をただ手をこまねいて待っているだけではだめで、彼らが目の前に現れてくれるためにできることはしなくてはいけない。机に向かうこと、他の作品に触れること、人に触れること、運動をすること、作品のためによかれと思いつくことならなんでもだ。ただ、何をすれば現れてくれるのかわからないから、苦しい。そこに確実性はない。多分詩作をする人に(本当の意味で)できることは、「神さま」「天使さま」が必ず現れると諦めないことしかないのだ、とわたしは思う。



ところでこのあいだ、ある編集者の方と食事をする機会があった。まだ一度しか仕事をしたことがないのだけど、彼の作る雑誌は何度か読んでいて、いつかちゃんとお話がしたいと思っていた。それでせっかくの機会だったので、ずっと訊いてみたかった質問をした。
「あなたにとって、『編集』とはどういう仕事ですか?」
こんなに性急で抽象的でとっかかりもないような質問にも関わらず、彼はほとんど悩まずに回答してくれた。まるで、すでに自分の中でその質疑応答は終えているとでもいうように、
「編集の仕事は、勇気を伝染させることだと思っています」
と彼は言ったのだった。

「絶対にこの作品は良いものになるって、最後まで信じ続けること。その勇気を、作家さん含め関係者全体に伝染させることです。編集者がそれをやらないと、誰がやるんだろうなって思う。極論、編集者の仕事はそれだけなんじゃないかなっていう気もします」

それを聞いて、この彼と同じようなことを言っていた人がいるな、と思った。
無論、柳下さんだ。柳下さんはわたしにこんなことを言ったことがある。
僕にできることは、『君は絶対に良い作品を書く』と信じて言い続けることだけだ」
逆に言えば、編集者にできることなんて、それだけなんだよ、と。



『ミセス・スティーヴンス……』を読んでいて、ふたりのその言葉を思い出した。「勇気を伝染させる」仕事。確かに、その通りだなと思う。わたしは担当編集者である柳下さんに、どれだけ勇気を与えてもらっているかしれない。

「柳下さんって、天使みたいだよね」
昔、わたしは柳下さんにそんなことを言ったことがある。柳下さんは噴き出していたけど、わたしは本気でそう思ったのだ。
「こんなにわたしを励ましながら書かせてくれて、小説の神さまが遣わしてくれた天使みたいだ」
柳下さんは笑いながら「それは光栄だね」と言った。

だけど、多分良い編集者というのは、書く人にとってみな「天使」的な人なんじゃないだろうか。
正直さも努力も、意志も知性も助けてはくれない詩作の世界で、もしかしたら唯一助けてくれるのは「勇気」なのかもしれない。

絶対にこの作品は良いものになる。
そう信じ続ける先にしか、詩作の神さまは現れない。だとしたら、そう信じさせてくれる人が、きっと天使なのだろうと思う。