ゴールの5m先にある、もうひとつのゴール

『100年後あなたもわたしもいない日に』という本がある。短歌と絵の本だ。

わたしが短歌を読み、寺田マユミさんが絵を描いている。デザインは岸本敬子さんで、編集は柳下さんだ。
これまでに3刷を重ねて、こつこつと販売・発送し、そのうちのほとんどが書店さんや読者の方の手元に飛び立っていった。次は4刷目だ。

この本を作ったときの熱量がいまだに忘れられない。
一昨年の夏だった。すごく暑かった。夜遅くまでファミリーレストランで、敬子さんと柳下さんと原稿や原画コピーを前にしながら、本の制作について話し合った。
途中わたしは何度も甘ったるいココアやジンジャーエールを飲んだ。そうでないと、脳がついていかなかったのだ。目の前で飛び交う、何時間にも及ぶアイデアの応酬に、わたしは頭がくらくらした。この人たちは、本当に体力がある、と思った。

さっき出たとてもいいアイデアを平気で捨てて、新しいアイデアを採ったりする。
まるで大木の枝から枝へ飛び跳ねて駆け上がっていくリスや猿のように、決して安住しない。
編集会議ってこういうものなのか。
ふたりのやりとりを見ながら、わたしはぼんやりと大木を見上げるような気持ちだった。

一番驚いたのは、もうすぐ入稿だというときに、急に新しい表紙案が出たときだ。
「すごくいいことを思いついてしまったんだけど」
柳下さんはそう言った。
わたしはものすごく驚いた。だけどきっと、それよりもずっと、敬子さんのほうが驚いていたはずだ。だってもうすぐ入稿で、ほとんどできあがっていたのだから。だけど、敬子さんは走り切った。ひとりの一流のデザイナーとして。本当に見事だった。
そうやってできたのが、今の本だ。


ものを作るとき、柳下さんは非人間的になる。
ああ、この言い方は誤解を招くかもしれないので、ちゃんと補足しておこう。
より丁寧に形容するならば、彼には作品至上主義なところがある。

いま作っている作品が、もっと素晴らしくなるにはどうしたらいいか? もっと人々に響くようになるにはどうしたらいいか?
彼はその追求に手を緩めない。
「妥協」という言葉が多分彼の中にはなくて、そのことにわたしはしばしば驚かされる。

非人間的、と言えど、作っているのは人間なのだから、もちろん彼は作り手である人間を尊重することは忘れない。

だけど、なんて言ったらいいのだろうな。
「できる?」
と言うのだ。彼はよく。
それはなんていうか、今存在している作り手が変わらねばできないことだったりする。今手の届く範囲でできるものを作るのではなく、もっと走れば、もっと動けば、もっとすごいものが作れるよ、という感じだ。つまりやっぱり、作品が中心なのだ。驚くほどに。

「できる?」
と言われたら、わたしは首を縦に振るしかない。
彼が頭に描くものが本当に生み出せたら、わたしだって読みたい、と思うから。
「できるかどうかはわからないけど、精一杯やってみる」
そう答えると、
「僕は君のそういうヤンキー精神を、とてもいいと思うよ」
と言ったりする。

ヤンキー精神。そうかもしれない。
バイクにまたがって、アクセルを限界まで回す感じ。とりあえず行けるところまで行ってみよう。あとは野となれ山となれ。そういう気持ちでいつも書いている。

ある程度まで行くと、気合で乗り切るしかなくなるんだな。
柳下さんと出会ってから、そういうことを学んだ。

「健闘を祈る。安心して。骨は拾うよ」
と柳下さんは言う。
そのたび、非人間的な人だなぁと思う。
だけど、作品のためならしかたないと覚悟を決め、バイクにまたがる。覚悟を決めた自分を鼓舞するため、大きな音でふかしまわすヤンキーみたいに。


「良いアイデアというのは、最後の最後に出てくるものですか?」

以前、『100年後』のトークイベントでそんな質問を柳下さんがされていたことがあった。そのとき彼はなんて答えたんだったか。わたしはその質問が来たとたん、考えごとのスイッチが入ってしまったので、残念ながら覚えていない。
(その質問に対する答えは、YesでもあるしNoでもあるなあ)
と、そんなことを思っていたのだ。


柳下さんはわたしのことを、「君は、まず感性で大きくジャンプして、あとからロジックで詰めていくタイプだ」と言う。
そう言われて、なるほど、確かにそうかもしれないと思う。この記事だって、わたしは何も考えず、手が動くままに書いている。そしてそれをあとで直すのだ、いつも。まずは思うがままに書いてみて、あとから客観的に読み返す。そしてより伝えたいように、伝わりやすいように、手直ししていく。

逆に柳下さんは自分自身を「ぎりぎりまでロジックで詰めていって、最後に感性でジャンプする」というタイプなのだと言った。
わたしはその意見に、なるほど本当にその通りだと思って、何度もうなずいた。
柳下さんが非人間的になるのは、まさにその「最後」の瞬間である。
「最後」らへんまで来ると普通はエネルギーをかなり使った状態だから、「もうそろそろゴールだな」とほっと一息つきそうなものだが、柳下さんはそういうときこそ急にジャンプしたりする。「え、今ここで飛ぶの!?」と、そのたびわたしは驚く。「もうすぐゴールだよ!?」と。
柳下さんは、設定していたゴールの先を見ている。真実のゴールはもっと先にある、と言うのだ。それはもう、気合でしかついていけない。体力がすごいのだから、本当に。


「良いアイデアは、最後の最後に出るものですか?」
だからこの質問に対しては、YesでありNoなのだ。

柳下さんにとっての本当に良いアイデアは、ロジックで詰め切って詰め切って詰め切った先のジャンプのときに出るものだから、結果として「最後の最後」になっているだけなのだと思う。

それは、単にぎりぎりに追い詰められたから出てくる、というものではない。
そこに至るまでにどれだけ着実に階段を登っていたか。どれだけ努力をして高くまでよじ登ってきたか。その段数の多さが重要なのだと思う。
だからこそ、そこで出てくる「感性」は「非人間的」になる。人間の努力だとか論理だとかを超えたところに出てくる、「アイデア」だから。


先日、京都精華大デザイン学部の卒業生にインタビューをしたのだが、そこですごく素敵な絵を描く男の子がいた。
「ものづくりの上で大事にしていることは何ですか」
という問いに、彼は「妥協しないことです」と答えた。

「最後の最後まで、絶対に手を緩めない。まだ何かできないか、まだどこか手を加えられないか、自分が完全に『これで良い』と言えるまで手を抜かないようにしています」と。

それを聞いてわたしはふと、
「まるで100m走みたいですね」
と、口にした。
「最後の5mで、いかに『もっと速く、もっと速く』と脚に力を込められるかどうか。きっと、それでタイムって全然変わってくるから」

すると彼はすごくびっくりした顔で、
「そう、僕、陸上部だったんですよ」
と言った。

「100m走るなら105m走るつもりで、っていつも自分に言い聞かせて走っていたんです。じゃないと絶対、最後の5mで手を抜いてしまうから。ゴールの先へ、ゴールの先へって、いつも思って走っていました」


「陸上部だったなんて一言も言ってないのに、何でわかったんですか?」
と、彼は不思議そうに言う。
それに対してわたしは「なんででしょうね」と笑った。



「良いアイデアは、最後の最後に出るものですか?」


きっとアイデアは、最後の最後に脚に力を込められる人のもとに降りるのだろう。
あるいは、そういう人がアイデアを掴み取るんだと思う。
ゴールの5m先にある、もうひとつのゴールで。