「ものを売る」ふたつの原則

「ものを売る」ということが、苦手だった。

むかし、出版社の営業をやっていたことがある。
本屋さんにうかがって、担当のスタッフさんに会い、新刊のおすすめや既刊の補充の提案などをする。わたしはこれが本当に苦手で、4年経っても全然慣れなかった。
なぜ今日売れたのか、なぜ今日売れなかったのか、まったくわからない。いつもおっかなびっくり、営業をしていたと思う。「無理して注文してくれたのではないか」という後ろめたさや、「もう来るな」と拒否されるのはないかという恐怖を、根拠もなく感じていて、毎日緊張で脂汗をかいていた。わたしは営業に向いていないんだろうな、といつも思っていた。

その数年後、今度は自分が小さな出版社をやるようになった。柳下さんと立ち上げた、文鳥社という出版社だ。設立した年に、短歌とイラストの本『100年後あなたもわたしもいない日に』という本を出した。営業をする前に、本屋さんから注文があって、どうやって見つけてくれたのだろうと驚き、とても嬉しかった。その後も、数々の本屋さんや読者の方たちがわたしたちの本を見つけてくれ、注文してくださった。まったくもって、幸運以外のなにものでもない。

だけど、幸運に甘えたままではよくない、ということも思っていた。ちゃんと営業をしなくては。だけど、営業に対する苦手意識が完全にインストールされているわたしにとって、新規開拓は非常に難しいことだった。
「行かなくちゃいけないのはわかっているんだけど」「あーうー」と頭を抱え込むわたしに、柳下さんは笑いながら言った。
「売ろうとしなくてもいい。まずは、知ってもらうだけでいいんだよ」

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その言葉の意味を、わたしはブックフェアで知ることになる。
初めてのブックフェアは、台湾だった。言葉もわからない国で、初めての対面販売。しかも売るものは『100年後あなたもわたしもいない日に』1点のみである。
売れるのだろうか、と最初は不安だったが、結果から言うとなんと2日で100冊売れた。本当にびっくりした。

このときの幸運は、台湾のブックフェアの現地スタッフさんが、非常に良い人たちだったこと。そして、台湾語を話せる柳下さんの友人が熱心に手伝ってくれたことだった。
わたしたちのブースを担当をしてくれた現地スタッフのキリンちゃんという女の子は、日本語が上手で、しかもすごく協力的だった。台湾語で『100年後…』を紹介してくれたり、ポップを作ってくれたりした。手伝いにきてくれた、柳下さんの友達の一心くんや白勢さんも、流暢な台湾語で一緒になって本の紹介をしてくれた。その横で柳下さんは、英語でお客さんと談笑したり、写真を撮ったりしていた。
英語も台湾語も話せないわたしは、ひたすら「ニーハオ」「This is Japanese short poem and illustration book.」「シェイシェイ」を繰り返して、本の中身を見せ、とにかく手にとってもらい続けた。時には「I wrote this.」と言うこともあった。そうすると「You!?」とびっくりしてもらえた。手持ちの数少ないボキャブラリーで、とにかく話せることを全部話す、という感じ。見ていってくれる人には、ほとんどみんなに声をかけた。

最初はぽつぽつとしか売れなかった。手にとって、パラパラとめくり、「Thanks.」とにっこり笑って返される。「売れないのかな」と少し不安になったけど、時間が経つにつれて、気づいたことがあった。一度手にしてくれた人が、会場を一通り回ったあと、帰ってきてくれることが多々あったのだ。そして帰ってきてくれた人は、必ず人差し指を一本立てている。「一冊ください」という意味で。

そのとき、柳下さんの言葉を思い出した。
「売ろうとしなくてもいい。まずは、知ってもらうだけでいいんだよ」

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もうすぐ『戦争と五人の女』という小説が出る。文鳥社2冊目の本だ。
それに際し、改めて柳下さんに「ものを売る」ことについて教わった。
茶店でチャイを飲みながら、柳下さんは「営業の原則はふたつしかないんだ」と言った。

「ひとつは『双方にメリットがある状況でしか、ものを売ってはいけない』ということ。そしてもうひとつは、『人は、知っている人からものを買う』ということ」

わたしは慌ててメモをとる。大事なことは忘れたくない。
わたしが手帳に文字を書きつけるのを待ってから、「まずはひとつ目について説明しよう」と柳下さんは言った。

「こっちだけにメリットがある状態でものを売ると、ぼったくりになる。逆に、相手だけにメリットがある状態だと、買い叩かれる。その関係は長続きしないから、常に双方にメリットがある状態を作るのがいい」

それを聞いて、わたしは自分のことに置き換えて考えてみる。

「たとえばわたしが『ある人に本を売る』状態だとどうなるんだろう。わたしにとっては買ってもらって読んでもらえるのがメリットだけど、その人にとってのメリットは、『良い本に出会えること』でいいのかな? つまり、わたしがその人のメリットのためにできるのは、とにかく良い本を作るっていうこと?」

「うん、それももちろん大事なことだね。だけど、相手にとってのメリットっていうのは、それだけではない。これがなかなか難しいことなんだけど」

「たとえば?」

「たとえば『経営者の孤独。』という君の作品がある。あれはインタビュー集に見えて、普通のインタビュー集ではないよね。あの本は、君自身が孤独を追求するルポルタージュであって、合間合間に君のモノローグやエッセイが入っている。そういう本ですよ、という情報を相手に事前にきちんと伝えることができれば、相手のメリットはさらに増える」

「それはつまり、相手の期待とのミスマッチを未然に防ぐということ?」

「そういうこと。だからここでも、とにかく『知ってもらう』ことが大事なんだよ」

それからふたつ目、と柳下さんは言った。

「人は、知っている人と知らない人とでは、知っている人からものを買う。
たとえば僕は、鷗来堂という校閲の会社を立ち上げたときに(柳下さんは校閲会社の社長でもある)、『神楽坂にある校正校閲の会社・鷗来堂です』と名乗るようにしていた。この一言には大事な情報が入っているよね。場所と、何をやっているかと、名前だ。神楽坂付近には出版社がとても多い。だからその一言で、お客様である出版社の方に『ああ、この会社はうちの近くにあるんだな』『校正校閲をやっているんだな』と理解してもらうことができる。僕の会社は『知っている人』になり、『校正の必要が出たら、いつか声をかけてみようか』と思ってもらうことができる」

「なるほど」

「君が前に、出版社の営業でやっていたことと同じだよ。君は、毎月同じ書店さんに顔を出して、挨拶をして、本の案内をしていただろう。そうすると、顔を覚えてもらえて、土門さんは書店さんにとって『知っている人』になる」

「そうだね。何かあったとき、知らない人よりは知っている人……つまり『土門さん』に頼もう、って思ってもらえるわけか」

「そういうこと」

なるほどなあ、とわたしはうなった。

「営業っていうのは、『双方のメリットがある状態』と『知っている人である状態』を作るってことだったのかー」

力を込めてうなずき続けるわたしを、柳下さんはおもしろそうに見た。「納得した?」と聞かれて「納得した」と答える。確かに、わたしがものを売っていて売れるときってその両方が満たされたときだな、と思った。


「ものが売れる原則はとてもシンプルだ。わかりやすいでしょ?」

「わかりやすいね」

「まあ、難しいことでもあるんだけどね。だけど、このふたつを愚直にやり続けていれば、必ず売れるようになる。僕はそう思っている」


その話を聞いて、自分が「ものを売る」ことに罪悪感を持っていたんだなということがわかった。
かつて、わたしはとにかく「売ろう、売ろう」としていた。それは、小さな穴にボールを投げ続けることに似ていた。だからすごく緊張していたし、不安感が大きかった。
だけど、たとえば台湾のブックフェアでやったことは、それとは全然違っていた。

「今買わなくてもいいから、こういう本がこの世にあるのだということを知ってほしい」

そう思いながら、ひとりひとりとの出会いを大事にしていた。
わたしはあのとき、長く続く関係性のスタート地点にいるような気持ちだった。

それは、穴にボールを投げる行為ではなく、その人の中に穴を掘る行為、のようだった。その人の心に、コツコツと穴を開けていく。いつかきっと、そこにボールがはまる時が来る。今じゃなくてもいい。きっとこの先に来る、そういう時のために。

チャイを飲みながら、『戦争と五人の女』も、そんなふうに売っていけたらいいなと思った。そう思えたことが嬉しかった。一度離れた「営業」と、またこうしてちゃんと向き合えたことが。

「あっ、だから柳下さんは、『戦争と五人の女』ができるまでのことを書き残すべきだって言っていたんだね」

以前からずっと柳下さんに、『戦争と五人の女』がどうやってできたかを書くべきだ、と言われていたのだ。わたしはその理由がよくわかっていなかった。それは、『戦争と五人の女』を販売するにあたって「双方のメリットがある状態」と「知っている人である状態」を作るべきだ、ということだったのだ。
わたしがそう言うと、柳下さんはやれやれというふうに笑い、「やっと伝わった?」と言った。「やっと伝わった」と答えたら、「それはよかった。今まで君に伝わらなかったのは、きっと僕の伝え方が悪かったからだな」と彼はうなずいた。


「さっきのふたつの原則は、僕が営業をしていたときの師匠に教わったことなんだよ」
と、柳下さんは言った。きっと、若かりし頃の柳下さんは、たくさんものを売ったのだろうなあと思う。


「今度の本もとても良い本だから、頑張って売っていこう」
柳下さんがそう言って、わたしは「うん」と返事をした。

これから、『戦争と五人の女』のことについて書こうと思う。
こういう本がこの世にあるのだと、まずはきちんと知ってもらうために。