「小説というものについて考えてみたんだ」

柳下さんは、よく因数分解をする。

たとえば、
「女」の要素を「母性・女性性・少女性」に。
「おいしい」の要素を「熱・塩・出汁」に。
「知性」の要素を「体力・集中力・持久力・好奇心……(これはまだ因数分解の途中であり、体力のなかに集中力・持久力も含まれるのではないかという仮説も話していた)」に。


「『おいしい』ということについて考えてみたんだ」

そのように彼が話すとき、「ああ、因数分解をしてみたのだな」と思う。
わたしはその話を聞くのが好きだ。
なんだか、茫漠とした世界に、少しずつピントが合わさっていくような気がするから。

それはまるで、密林のなかでひとつの樹の枝を手折る行為のようだ。
薄暗く繁茂した気味の悪い密林でも、手近にある枝を折り図鑑で調べれば、その樹が何であるかがわかる。そしてそれは密林を知る手がかりとなる。それをこつこつと繰り返していけば、密林がどのような植物で成り立っているのかわかるようになり、そこを歩くのもこわくなくなるかもしれない。



わたしにとっての密林は、「小説」だ。

わたしは小説を書いているが、小説が何なのかわからない。
書いても書いても、自分が一体何をしているのか、どういうつもりで、どこに向かっているのか、まったくわからない。
小説は、大きい。途方もなく大きな流れのようで、わたしはそれを把握することができない。だから小説がいったい「何」なのかがわからないのだ。

ときどき、その密林のなかで足が動かなくなるときがある。自分が何をしているのかわからない。どこに行こうとしているのかもわからない。自然と動いていた足は自然には動かなくなり、動かそうとすると無理に力が入る。

はじめてそうなったとき、柳下さんはわたしにこう言った。

「『小説』というものについて、考えてみたんだ」

わたしは顔を上げる。
彼は「小説」とは何かについて、考えてみたのだと言う。
わたしは黙って、彼の言葉の続きを待った。

「ストーリー、キャラクター、シーン。小説は大きく分けて、この3つによって成り立っている」

ストーリーは、広義の世界観であり、テーマとともに流れるもの。
キャラクターは登場人物。何かに喜び何かに怒る、想像上に実在する人物。
そしてシーンは、映画におけるカット。構成要素の小さな単位。

わたしは彼が口にする、(この時点の二人の会話における)ひとつひとつの定義を頭に叩き込む。これは大事な話だと思った。なぜなら柳下さんは、これからこの密林を進む策を話そうとしているからだ。それも、愚直に、確実に、歩みを進める方法を。

なんだかそのとき、どきどきした。密林を歩くのが、少しずつ現実味を帯びてきたからだった。歩けるかもしれない、と思った。少なくとも目の前のこの人は、それを諦めていないし、絶対にできると思っている。

「君は、この三つのなかではシーンを描くのが飛び抜けてうまい。これまでに書いた短編小説も、シーンの連続で成り立っている部分がある。だけど君は、これから長編を書こうとしていて、書きあぐねている。それはなぜか」

柳下さんは言った。

「それもそのはずだよね。だって、シーンはそもそも、ストーリー、あるいはキャラクターを描くためにある。ストーリーのためのシーン、キャラクターのためのシーンなんだ。逆に言えば、シーンのためのシーンは存在しない。
そして君は今、ストーリーもキャラクターも見えていない。ということは、シーンを書くのが難しいのは当然のことなんだよ」

今のは現状分析、ここからは改善提案、と柳下さんは続ける。

「君はキャラクターを作れていないわけじゃない。君の中に必ずキャラクターはいる。
そして、それらはシーンによっていつも描かれる。だから、ここからが提案なんだけど、短いカットをいくつも書いてみるのはどうだろう? 
歯を磨くシーン、物を食べるシーン、料理をするシーン……彼女は手際がいいのか悪いのか、そもそも彼女は料理をするのか?
まず、キャラクターを書くためのシーンを練習するんだ。そうすると、自然とストーリーは動いてくると思う」


黙って彼の分析と提案を聞いていたわたしは、
「わかった」
と、ひとこと言った。
「わかった、書いてみる」

柳下さんと出会ってから、この言葉を何度言ったかしれない。
「どうしたら書けるのかを考えるのが僕の仕事だから」
と言うのが柳下さんなら、
「書くのがわたしの仕事だから」
と返すのがわたしなのだ。

それから、言われた通りに書き始めた。ノートに、鉛筆で、まるでその人物の姿形・性格・所作を、彫刻で掘りだすように。



ある日、言ったことがある。
「柳下さんは、小説のことをよく知っているんだね」
教えてくれてとても助かっている、と。

でも柳下さんは目を丸くして、
「いや、僕は小説のことを何にも知らないよ」
と言った。

「そう? これまでにためてきたいろいろなノウハウを、わたしにくれているんだと思っていたけれど」
すると、柳下さんは笑って
「小説を書くノウハウなんて、僕は知らないよ」
と否定した。

「ただ僕は、作家さんに真正面から向き合って、その都度どうすればいいのか、ずっと考え続けているだけだよ」

そうなのか、と言うと、そうだよ、と言われた。
そして、そうか、そうだよな、と思った。
だって密林は、道がないからこそ密林であり、そこを通る意味があるのだから。


「君は小説のことを『小説という大きなもの』というときがあるね」
と柳下さんは言った。
「僕はあの言葉がとても好きだな」

小説という大きなもの。
把握もできない、説明もできない、大きな流れのようなもの。

その前で立ちすくむわたしの横で、柳下さんは小説の一部を手折りまじまじと見る。
わたしはその様を見て、少しぎょっとする。
小説って、手折っていいんだ。
そんな気持ちで。
そして、この人は本気なんだな、と思うのだ。

「小説というものについて考えてみたんだ」

それは手がかりである。
手がかりができたら、手をかけられる。そうしたら、足が進む。わたしはここを、歩き進むことができる。愚直に、確実に。

無論、それはこわいことでもある。
わからないと言って、立ち止まっていたほうが楽だ。だって真っ暗いこの密林を行けば何がいるかしれない。けがをするかもしれないし、飢えるかもしれない。

だけど、柳下さんは諦めない。躊躇なく枝を折り、観察し、思考する。本気だから。本気であることは、きっとこわいことなのだと思う。

「だけど思うんだけど、本気でやらないとおもしろくないよね?」
柳下さんはそう言った。

「君だって、本気でしょう」
わたしがうなずくと、「そうだよね」と柳下さんは笑った。


小説という大きなものにつながりたい。
そう、本気で思っている。