柳下さんの写真の話

写真を撮られるのが苦手である。

カメラを向けられたときに笑顔を向けたらいいのか、それともカメラなど意識していないよという顔をしたらいいのか、よくわからない。それで中途半端に笑ったおかしな顔になってしまう。ああいうとき、どういう顔をしたらいいんだろう?

柳下さんはカメラを持っている。Canonの一眼レフだと思う。カメラにまったく明るくないので自信はないが、このあいだ確認したら「Canon」と本体に印字されていたので合っていると思う。

話しているとふとカメラを鞄から取り出し構えて撮る。あまりに自然なので、わたしは無理に笑う必要はないのだろうと思うのだけれど、やはり少しは緊張してしまう。それでも構わず、柳下さんは撮る。それはまったく嫌な感じではない。
だんだん、カメラが気にならなくなってくる。それで普通に話し、普通に笑う。後日送られてくるわたしの写真は、自分でも「いいな」と思う。自然体というのともちがう、きれいとかおしゃれとかいうのでもない。なんというか、表情がある。わたしは自分の写真で、こんなに表情豊かに映っているのを見たことがない。


ちょうど1年位前だろうか。ふたりでソウルに出張したことがある。そこで柳下さんはたくさんの写真を撮った。わたしは本当にいろいろな表情をしていた。笑っていたり、驚いていたり、おいしがっていたり、珍しがっていたり。
その前日あたりに、わたしは違う取材でお寺を訪れていた。同行したカメラマンさんは京都で有名なベテランの方だった。彼は住職や庭師の方にいろいろなリクエストをした。「ああ、これは美しい写真が撮れるな」と、そこにいる誰もがそう思ったと思う。そして実際、とても美しい写真が撮れた。
もし彼がわたしの写真を撮ったら、と想像する。きっと「襟を直して」とか「背筋を伸ばして」とか「顎をひいて」とか、言われるだろう。わたしはもっともきれいに見える角度にからだのあちこちを合わせていく。そして、ばちっと決まった瞬間に撮影されるだろう。

柳下さんはソウルで100枚以上わたしを撮った。そのとき一切、リクエストをしなかった。わたしはただ、わたしであればよかった。

カメラマンには二種類いると仮定すれば、それは「被写体を撮るカメラマン」と「関係性を撮るカメラマン」だと思う。
先述のカメラマンは前者、柳下さんは後者である。
そして前者は一方通行の目線、後者は双方向の目線だ。

「だから、そのカメラマンさんはどのような角度で撮ればいい表情が撮れるかを模索している感じで、柳下さんの場合はいい表情をつくり出しているって感じだと思うんだよね。なので、正解不正解がないし、同じような写真はきっと他の人には撮れない」
そんなことを言うと、柳下さんは
「僕、手が大きいでしょ。それはいいことだって他のカメラマンさんに褒められたことがあるんだ」
と言った。
「なんで? 安定感が出るから?」
「いや、こうして持つと、カメラがすっぽり隠れるじゃない?」
柳下さんはそう言ってカメラを構えた。確かに、カメラがすっぽり隠れてレンズだけが覗いた格好になる。
「そうすると撮られている人からカメラが見えないって言われたんだ」


柳下さんがこちらを見ているとき、わたしたちは柳下さんを見ている。カメラではなく。撮られているという感覚よりも、見られている・見ているという感覚のほうが近い。それが記録に残っていくという感じだ。


わたしはインタビューのことを考える。
インタビュアーにも二種類いて、「インタビュイーを書くインタビュアー」と「関係性を書くインタビュアー」がいて……。
きれいな、整ったあなたじゃない。わたしにしか見せない表情を見せてほしい。
わたしはそんなふうに思うインタビュアーだから、柳下さんの大きな手のようなものが欲しいと思う。