前書きのようなもの

柳下さんの体調が悪い。彼とはまだ1年ちょっとの付き合いだけれども、こんなに体調が悪そうなのは初めて見た。
まず風邪が治らないそうだ。熱があり、洟が出るという。そして歯が痛んで歯茎から血が止まらないらしい。歯医者に行ったら虫歯ではないと言われ、おそらく風邪のウイルスが歯茎に入ってしまったのでしょうと言われたと言っていた。そもそも、彼が病院に行くということ自体大変珍しいことで、柳下さんが病院に行くなんて相当体調が悪いのだなということがわかった。
以前「柳下さんはこんなに忙しいのにいつも元気そうで、体力があるね」と言ったら、「体力があるというよりも、回復力があるんだと思うな」と言われた。ふーんそうか、とわたしは答えた。そうかもしれない。体力があるというより、回復力があるのかもしれない。
まるでじりじりとにじり寄るように、数字を因数分解するように、彼はできるだけより正しい言葉を使おうとする。それは彼の良いところのひとつだと思う。

先日喫茶店で打ち合わせをしたとき、歯茎から血が湧いて出てずっと血を飲んでいる状態で気持ちが悪いのだ、と言うので、「もしかして柳下さんは死ぬのではないか」と思った。死なれては困ると思ったが、そんなことを思っている自分のほうが先に死ぬかもしれない。人間はいつ死ぬかわからないという誰もが知っているのに、誰もが普段意識していないこの事実。死んだら肉体は消えてしまう。今話している言葉も、ほとんどは記憶からいつかなくなるだろう。そうか、とても儚いものだな、と、彼の顔を見ながら思った。

彼はわたしの担当編集者である。そして、文鳥社という出版社の共同経営者でもあり(社長は彼)、そこでもやっぱり彼は「編集者」である。編む人である彼は、あまり文章を書かない。文章を書くのではなく、編むのが仕事だからだ。
わたしは書く人だ。書く人は、文字として書かれていないものを見ると書きたくなる。編集者が、とっちらかったものや形になっていないもの、混沌としているものを編みたくなるように。
こんなに近くに「まだ書かれていない、しかし書かれるべきもの」がいた、と気持ち悪そうにアイスコーヒーで血を飲み込んでいる柳下さんを見ながら思った。書きたいな、と思ったし、書くべきだな、とも思った。

人は誰しも、何かのテーマをもって生きているように思う。
大学のゼミで教授が、「その人のことを知るには卒論のテーマを聞けばいい」と言っていた。でも、柳下さんは大学を出ていない。たしか最終学歴は高校中退だったはずだ。だから残念ながら彼の卒論は存在しないのだけれど、もし書いていたとしたら、彼のテーマは「コミュニケーション」だったのではないかと思う。
わたしは彼と過ごす中で、「コミュニケーション」についてとても多くのことを学んでいる。それをわたしはきちんと書き留めようと思った。作家と編集者、一緒に会社をするパートナーという、密で、複雑で、繊細なコミュニケーションが求められる関係の一端を担うわたしにしか書けないことがあると思う。それで、このブログを始めることにした。
タイトルはそのとき頭にぱっと浮かんだもの。タイトルを聞いた柳下さんは目を丸くして、それから大きな声で笑った。「タイトルが強くていいね」と言った。わたしもそう思う。「柳下さん」のあとに読点を入れるか入れないかで最後まで悩んだが、入れない方がより強くていいと思い、入れないことにした。
死なないで、というのは、英語では「You Can't Die」というらしい。『柳下さん死なないで』というのは懇願というよりも、死なれては困るよ、というニュアンスに近くて、それもいいなと思った。なのでそれはURLに込めることにした。

「この連載の最終回は、柳下さんが死んだとき。だからあんまり早く死なれると困る」
と言うと、柳下さんは
「君がその連載を書き続けるうちは気をつけるよ」
と言った。

最近死ぬ準備ができてきた、と彼は言う。それはどういう意味なのか、そしてどういう準備なのか、今度会ったときに聞かなくてはと思う。

わたしは、やっとこの人生で何をすべきかがわかったところだ。
「まだ書かれていない、しかし書かれるべきもの」を書き続けること。それがわかったことは、死ぬ準備の一歩目かしらと思う。

「〆切を設定するといいよ。〆切がないと何も生まれない。すべてのクリエイティブの母だ」
これは柳下さんの口癖である。あともうひとつ、
「駄文を垂れ流すつもりで書けばいい。駄文だと思っているのは君だけだから」。

いつか彼は卒論を書くだろうか?そのときにこの連載が参考資料として役に立てばいい。もし卒論が書かれなかったとしても、柳下恭平のコミュニケーションについての研究論文(あるいは観察日記)としてこれが残ればいい。


土門蘭